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22 若頭と小鳥の夕暮れと夜明け

 義父の家から戻ってきた日、さやかはキッチンで夕食の準備をしていた。

 さやかはたびたび、義兄に食べてもらうために料理することがある。今日も料理人に手伝ってもらって下ごしらえをした後、一人で仕上げをしていた。

 お兄ちゃん、今日も仕事で遅いかな。いつも先に食べていていいと言ってくれるけど、一人は寂しいな……。そう思いながら、一生懸命鍋をみつめていた。

 味付けを終えると、さやかは煮物に添えるにんじんときゅうりの飾り切りを始める。さやかはこういう細かい作業が好きで、義兄は、さっちゃん、根詰めないんだよと心配するくらいだった。

 ……でも、母はもっと上手だった。その精神状態では危ないからと、義父は母に料理をさせなくなってしまったけれど。

 さやかは昼間に触れた母の手の感覚を思って、そっと目を伏せた。

 飾り切りのにんじんを、湯の中にさっとくぐらせたら出来上がりだ。さやかはお玉で野菜をすくってキッチンペーパーの上に乗せると、ようやく詰めていた息を吐く。

「あ、筑前煮だ。俺、これ好き」

 声がして振り向くと、義兄が煮物のつまみ食いをしていた。さやかは苦笑して、お兄ちゃん、と呼びかける。

「おかえり。キッチンまで来なくても、私がすぐに運ぶのに」

「さっちゃんが作ってくれたんだから俺が運ぶよ。それに」

 義兄はさやかを後ろからハグして笑う。

「エプロン姿のさっちゃんをこうしてぎゅっとすると、新婚みたいでしょ」

「……し、新婚って」

 さやかは少し赤くなって、首を横に振る。

 義兄はくすくすと笑うと、ふとそれを小さく苦い笑みに変えて言う。

「さっちゃんが作ってくれるのはいつも幸せな味がする。でも今日はちょっと苦いかな? ……さっちゃん、泣いたでしょ」

 義兄はさやかの前に立つと、その頬に触れて目をかげらせる。

「お母さんのところから帰って来ると、いつもそう。さっちゃん、俺に隠れて泣かないで。大声で、子どもみたいに泣いたっていいから、俺にいつも気持ちを明かして?」

 さやかは義兄をみつめ返して、ふとにじんだ目をする。

 既に日は落ちて、キッチンは斜陽の陰で満ちていた。冬の宵は間近に迫っていて、調理の後の暖気がなければ寒くていられない。

 義兄はさやかを膝に乗せて抱えたまま、椅子に座ってさやかを見下ろす。義兄はいつもそうやって、さやかの言葉を待ってくれる。

 さやかはうつむいて言葉に迷うと、ぽつりとつぶやく。

「お母さん、だいぶ子ども還りが進んでた。じきに……私のことも、わからなくなっちゃうのかな」

 義兄は頼りなげなさやかの言葉を、むやみに否定もしなかった。その代わり、さやかの背を安心させるように引き寄せる。

「さっちゃんがつらいなら、もう会わなくたっていいんだよ。誰もさっちゃんを責めたりしないように、俺がついてるんだから」

「ううん……子どもになったって、私のお母さんだから」

 さやかの目からぽとりと涙が落ちた。義兄は哀しそうに顔を歪めて、言葉を返す。

「さっちゃんのお母さんは優しい人だからな。俺も自分の母親より、彼女に可愛がってもらったくらいだ。何とかしてあげたい」

 さやかは首を横に振って義兄に言う。

「いいの。お母さんがいろんなつらい記憶を忘れて、穏やかな気持ちになっていってくれるなら、それで」

「でもさっちゃんが悲しいだろう? 俺はさっちゃんが笑っていてくれればいい」

 義兄はさやかの肩をつかんで、さやかの目を覗き込みながら問う。

「さっちゃん、お母さんを取り戻してあげようか? ……俺はさっちゃんのためなら、父さんと対立したって構わない」

 母とまた一緒に暮らせる。それはさやかにとって、確かに喜びそのものだった。

 でもその結果義兄を危険にさらすことになる。さやかはすぐに自分の中で結論が出るのを感じた。

「私は……」

 窓から差し込む微かな陽が、二人を照らしていた。さやかは義兄の頬に手を触れて、温もりを辿るように唇を寄せる。

「お兄ちゃんを守るためなら、悪い子になる」

 神様に誓うように、また悪魔に寄り添うように、さやかは義兄の唇に触れた。

「……だって誰よりお兄ちゃんと生きていきたいと、思っているから」

 夕暮れ色に染まったキッチン。さやかは初めて自分から、義兄にキスをした。

 少しだけ涙の味がする、長く甘いキス。それを義兄と共有している時間は、どこまでも落ちていくようで、今までにないところに昇る心地でもあった。

 さやかが顔を離したとき、義兄はいつもと違う目でさやかを見ていた。ずっと優しく、真綿で包むようにさやかをみつめていたまなざしは、凄艶な欲求を映していた。

「さっちゃん。……いいの?」

 息が触れる距離でさやかをみつめながら、義兄は問う。

「さっちゃんが怖がると思ったから、踏み込まなかった。でもさっちゃんが俺を求めるなら、もう我慢しないよ。……俺の野蛮な顔を見る、覚悟はできてる?」

 危ういような緊張が、二人の間にあった。その中で、さやかは義兄をみつめ返しながら言う。

「お兄ちゃん……私のこと、欲しがって。……そうしたらあげるから。全部、お兄ちゃんにだけあげる」

「……さっちゃん」

 義兄はさやかを強く抱きしめて、泣き笑いのような声でささやいた。

「わかった。さっちゃんに俺の全部をあげる。……だから、さっちゃんをもらうね」

 義兄はさやかを抱いたまま立ち上がると、夕暮れ時のキッチンを抜け出した。

 その夜、さやかは義兄に全部をあげて、義兄はさやかに全部をくれた。

 いつだって義兄に守られて、与えられるままだったさやかは、そのとき義兄に温もりを与える喜びを知って、甘いような痛みも知った。

「さっちゃん。……俺のさやか。一生離さない」

 義兄の体から汗がつたって、さやかの汗と混じる。その感覚さえ心地よかった。

「朝なんて来なくていい。このままずっとつながっていたらだめか?」

 野蛮なことを言う義兄に、さやかはふふっと笑う。

「今はだめ。お兄ちゃんが明日も帰ってきてくれたら、ご褒美にあげる」

「ん……そういうとこ、小悪魔なんだから。さっちゃんは」

 義兄は苦笑して、さやかはそんな義兄に笑い返してから、ふと窓の外を見やる。

「お兄ちゃん、見て。夜明け……」

 まだ二人つながったまま、窓から差し込む光を見る。

 甘く秘めやかな二人の世界にも、朝は来る。それだって幸せなことだと、さやかは思う。

「さっちゃん、俺といる時はよそ見厳禁」

 義兄は光に目を細めて、さやかの背に口づけを落とす。そのまま二人体を重ねて、また熱を感じ合った。

 それは二人の関係がまた一つ変わった瞬間。

 夜に生きる若頭と小鳥には、瞬く間の出来事ではあったけれど。

 二人の時間は甘く、野蛮に、いつまでも続いていく。

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