真昼のオフィス街にある展望ルームで、さやかは一週間ぶりに呉葉と会った。
「そうでしたか……。穏やかには暮らしていらっしゃるようですが、子ども還りは進んでいるんですね」
さやかが母の近況を呉葉に伝えると、呉葉は苦い表情でうなずいた。
さやかも目をかげらせて、手元のカップを見下ろしながらつぶやく。
「一緒にお菓子を食べて、折り紙をしたの。お母さんは途中で不安定になって、あまり長くはいられなかったけど」
「不安定? その前に何かありましたか?」
「確か……私が「お兄ちゃん」と口にしたときかな」
さやかがそう言うと、呉葉は少し引っかかったようで眉を寄せた。
「そういえば父さんに叱られたことがあります。「ひなこの前で兄の話をするな」と」
「お母さんは兄妹仲が悪かったの?」
「兄がいるとは聞いていませんが、実家とは絶縁状態でしょうね。何せ実家の借金の身の代として、父さんに差し出されたんですから」
「そうだね……」
さやかも義父の家に来たときは幼すぎて、元いた家のことは覚えていない。自分が母の代わりに何かしてあげたくても、さやかでさえ、今となっては母の実家とほとんど関わりがない。
呉葉はしょんぼりとしたさやかを見て、やっと微笑んで言った。
「とにかく、近況を聞かせてくれてありがとう。……さ、安心して食べてください。子どもの頃から、さやかの食の好みまで知ってる店ですから」
「うん……いただくね」
さやかは小さく息をついて、手元のキッシュにナイフを入れた。
ここは会員制のラウンジで完全個室だから、さやかたちの会話を聞きとがめる者はいない。ウェイターも軽食を給仕したきり、呉葉たちが呼ぶまでは来ない。
二人の席からは一面のガラス張りの展望が臨めて、天気もよく、穏やかな昼下がりの中にビル街が広がる。
ふいにさやかは手を止めて、ぽつりと言葉をこぼしていた。
「……私はお兄ちゃんたちに守られたままでいいのかな」
たぶん自分はずっと、いろんなことを知らないままでいた。義兄を始めとした周りがそうしてさやかを守ってくれていて、弱く頼りない体と心でも生きてきた。
呉葉は眉を上げてさやかを見た。そこには咎めるような感情はないが、気がかりがにじんでいた。
「どうかしました?」
さやかはナイフとフォークを置いて、さっと顔を上げる。
「くれは、私を事務所で使ってほしいの」
呉葉は驚いたようで、ごくんと息を呑んで言う。
「さ、さやか。何を言うんです。僕の事務所は裏の顔もある。やくざだって出入りするんです。兄さんが、許すわけないでしょう?」
「実はそれで、今朝お兄ちゃんと喧嘩したの。確かに許してくれなかった。でも」
さやかは呉葉をまっすぐ見ながら、一生懸命に言葉を続ける。
「だめだったら……お義母さんに頼んでみるって言った。お義母さんの仕事には、お兄ちゃんも手が出せないから。ただ……危険な仕事も、あるだろうけど」
「当たり前です! 言いたくはありませんが、あなたは愛人の子どもなんですよ。母さんがそれを期に、どんな仕打ちをしてくるかわかったものじゃない!」
呉葉は彼らしくもなく声を荒らげて、さやかを覗き込む。
「さやか、どうしたんです? 今の生活が窮屈になりましたか? 兄さんに、僕から話しましょうか」
「ううん……お兄ちゃんのことは、前よりもっと大事。気持ちの変化が、あって……」
さやかは言いながらかぁっと顔を赤くして、とっさに顔を擦る。
「……とにかく、私はできることをみつけたいの。お給料は要らない。下働きとおんなじでいい。くれはじゃないと、頼めないから。……お願い」
さやかは呉葉に向かって頭を下げる。呉葉が慌てる気配がした。
「あなたを危険にさらすことはできません! さやか、大学に通っているのだって、子どもの頃のあなたに比べたら大きな成長なんです。それを積み重ねていけばいいでしょう?」
「だめ。私が卒業したら……お兄ちゃんは今度こそ私を屋敷に囲って、籠の小鳥にしちゃうと、思うから」
さやかは義兄に大切にされているからこそわかることがある。義兄はさやかが危険なことは、何一つとして認めない。
けれどそれでは、さやかは義兄を守れない。……義兄と体を重ねたとき、決めた。何もできない自分のままではいないのだと。
「お兄ちゃんの世界に、私も行く。……だってお兄ちゃんは、私のすべてなんだもの」
さやかが顔を上げてはっきりと言葉にすると、呉葉は困り果てた表情で黙った。
窓越しの眼下の世界は箱庭のように綺麗で、静かだ。だけど一歩外に出れば、そこは本来雑多な世界なのだろう。さやかはそこに踏み込もうと思っている。
呉葉はため息をついて、明らかに喜ばないことを語る口調で問いかけた。
「僕が断ったら……本当に、母さんに頼むつもりなのですか」
「うん」
「……わかりました」
呉葉の了承に、さやかは顔を輝かせる。ただ呉葉はすぐにさやかの前に指を立てて言った。
「あなたが同業者に会うのは極力避けるよう計らいます。何か危険を感じたらすぐに僕に伝えること。……それから」
呉葉は複雑そうな表情でさやかを見て言った。
「母さんはあなたと兄さんの関係をよく思っていない。……結ばれたのは、決して母さんに勘付かれないようにしなさい」
「……あ」
さやかは呉葉に気づかれてしまったその恥ずかしさに赤面しながら、こくんとうなずいたのだった。