呉葉と食事をして帰った日の夜、さやかは夢を見た。
外は花盛りの春の頃だった。義父が本邸で、中学生になったばかりの義兄に短刀を渡した。
これからはお前も家業の席に着く。……身を守るためだ、持っておけ。そう言った義父の前で、義兄は一瞬沈黙した。
さやかはまだ幼くて短刀が何かも理解できなかったけれど、義父が恐ろしいことを言ったのはわかった。さやかは怯えて、呉葉の背の後ろできゅっと呉葉の服の裾を握りしめた。
でも義兄が沈黙した時間は長くなかった。義兄は義父を見上げて言った。
……よかった。ちょうど、守る力が欲しかったんだ。
義兄は少しだけ笑って、義父から短刀を受け取った。それを懐に仕舞うと、義兄はさやかに振り向いて手招いた。
たたっと走り寄ったさやかを、義兄は高い高いして、さやかの頬に自分の頬を寄せた。
さっちゃん、にこにこってして? そうささやいた義兄がいつも通りだったから、さやかは安心して笑い返した。
その頃から、義兄が気の弱い子どもだと言われることはなくなった。ある種別世界への立ち入りを認められた義兄は、そこから多くの武器を身に帯びて……それを使うようにも、なったのだろう。
私には今も、武器に触れさせたことさえないけれど……。さやかがそう思ったとき、足にひやりとした感覚を感じた。
さやかが目を開くと、そこは自室のベッドの中だった。まだ夜中だったけれど、枕元のランプをつけたままで、そのまぶしさに少し目を細めた。
「起こしちゃった?」
そしてさやかの隣に義兄が寝そべって、さやかの右足首をつかんでいた。
その力加減は真綿を包むように優しいけれど、冷たい指先にどきりとした。息が触れる距離でさやかを見下ろす義兄の目も、どこか危うかった。
さやかは夢から現実に帰って来ると、今日一日あったことを思い返した。
「……お兄ちゃん。まだ怒ってる?」
その中で今朝義兄と喧嘩をしたことも蘇って、さやかはばつが悪そうに目をそらす。
義兄はふっと息をもらして笑うと、さやかの頬に触れながら言う。
「怒ってはいないよ。ただ俺がさっちゃんに……今の暮らしの中で不安を感じさせちゃったのかなって、今日一日考えてた」
さやかは慌てて顔を上げて義兄に返す。
「ううん! 今の暮らしで不安があるわけじゃないの。お兄ちゃんが悪いわけでもない。ただ、私が……」
さやかは一度言いよどんで、言葉に詰まりながら言う。
「私も……お兄ちゃんを守りたくて。でも私、お兄ちゃんの世界のことを今まで全然知らずにきたから、少しずつでも関わっていきたくて」
じっと義兄が聞いてくれている気配を感じながら、さやかは一生懸命言葉を続ける。
「お、お仕事、邪魔しない。お兄ちゃんに迷惑かけないようにする。大学もちゃんと通う。く、くれはの言うことを聞いて、一生懸命お手伝いする。だから、私、私……」
「さっちゃん」
ふいにさやかはふわりと抱きしめられて、言葉をやめる。
義兄はさやかの頭の上で苦笑して、ぽつりとつぶやく。
「……ありがとう。さっちゃんに、俺はいつも救われてる。だから慌てなくていいんだ」
義兄は自分の心と対話するように、さやかの背をなでながら言う。
「さっきね、さっちゃんの足を触って、小さいなって思ってた。子どもの頃からさっちゃんはどこも小さくて、きれいで。さっちゃんがこのまま寝込んで、どこも行けなくて、一生俺の世話が必要なのかなと思ったとき……そんな幸せな毎日なら、望むところだなって。……でもね」
義兄はふとさやかの顔をのぞきこんで、ずっとさやかに降り注いできた優しさでもって言う。
「それは俺の独善だよ。たぶんさっちゃんは俺が思うほど弱くないんだ。……だからさっちゃんのしたいこと、やってみたらいいよ」
「お兄ちゃん……」
さやかが目を輝かせると、義兄は念を押すように続ける。
「ただしちょっとずつ、だからね? 危ないときはすぐ逃げて、俺に助けを求めてね。知らない人にはついていっちゃだめだよ。あと……」
「う、うん。気を付ける」
その後呉葉に言われたことを一通り義兄にも教え込まれたが、さやかは一つずつうなずいて聞いていた。
義兄のお説教を聞いていたら、夜もすっかり更けてきた。さやかは次第に目がとろとろとしてきて、こくこくと舟を漕ぐようになる。
心地いい眠気の中で、さやかはぽつりと問いかけた。
「お兄ちゃんは今も……お義父さんにもらった短刀、持ってる、の……?」
義兄はさやかの眠気の邪魔をしないように、そっとさやかの前髪をかきあげながら言う。
「……そうだよ。身の回りから外すのは、さっちゃんと眠るときだけ。俺の一番安らぐときだ」
義兄はさやかの額に口づけて、おやすみとささやく。
さやかは目を閉じながら、今度こそ深い眠りに落ちて行った。