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26 若頭と小鳥の子守り

 さやかが呉葉の弁護士事務所で働くようになったのは、さやかにとって新鮮な日々だった。

 今まで義兄に連れられて出かけたのは遊興の場で、働く場とは違った。呉葉はさやかをいきなりビジネスの場に置いたりはしなかったが、それでも事務所に来たらさやかはオフィスの一員だった。

 さやかは掃除でもごみ捨てでも何でも大丈夫と呉葉に言ったが、呉葉はさやかの様子を見ながら事務仕事を任せてくれた。さやかは大学の合間に、呉葉の事務所で入力や書類の仕分けをしていた。

 けれどそうやって働き出して二週間、さやかの仕事は思いがけず変わって来ていた。

「さやか、子どもの相手を任せていいですか?」

「うん。すぐ行くね」

 呉葉に呼ばれてさやかが別室に入ると、三歳くらいの女の子が所在なさげに座っていた。

 さやかはにこっと女の子に笑うと、うさぎのぬいぐるみを持って女の子に声をかける。

「こんにちは。……お父さんたちがお仕事の話をしてる間、おねえちゃんとあそぼ?」

 さやかがうさぎの手を取って振ると、女の子はおずおずと歩み寄ってきた。

 義兄の家業は闇金融だから、ここを訪れる客も基本的には金銭のトラブルでやって来る。

 ただ銘座が取り立ての最前線を担う一方、呉葉は既に取り立てに応じている客の返済計画の仕事をしていて、呉葉の事務所には子連れで訪れる客も多くいた。

「うさぎさんは好き? それともねこさんにする?」

「うさぎさんがすき」

「そっか。おねえちゃんと一緒だね」

 ……ここに来るまで知らなかったが、さやかは子どもの相手がとても性に合っているらしい。

 いじめられっ子だったさやかは、無意識に柔い空気を身にまとっている。生来の穏やかな気質のために決して子どもに警戒されないし、さやかもいつまででも子どもの相手をしていられた。

 ……たぶん、次第に子どもになっていった母と過ごした経験も役に立ったのだ。そう思うと、ちくりとした痛みを感じることもあった。

 さやかはもう一体のうさぎのぬいぐるみをぺこりと動かして笑う。

「おねえちゃんは、ブルーのうさぎさんの役をするね。……ピンクのうさぎさん、お名前を教えて?」

 さやかはここのところこうやって、大人たちが金銭の相談事をしているとき、その子どもの相手を任されている。

 ぬいぐるみでごっこ遊びをしたり、積み木や折り紙をしたり。さやかがどこも棘がない言葉と表情をまとっているとわかると、子どもたちは段々と心を開いてくれる。

「さやかちゃん、みーこのないしょ話きいて」

「うん。どんなお話かな?」

 女の子がじゅうたんに腹ばいになって手招きするので、さやかもお行儀悪くじゅうたんに転がる。

 さやかが女の子に耳を寄せると、彼女は無邪気にお話を切り出す。

「みーこね、あいじんの子なんだって。でもね、これはないしょね。さやかちゃんにだけ教えてあげる」

 さやかは一瞬息を呑んだが、すぐに複雑な表情になる。

「うん、さやかもそうなの」

「そうなんだ……。さやかちゃんも、ママとあえないの?」

「さやかは、お母さんがそれで幸せならいいの。でも……」

 さやかは母から、父親のことをほとんど聞かされていない。幼い日のおぼろげな記憶はあるが、どんな人だったかはっきりとは思い出せない。

「お父さんは、どこにいるか知らなくて」

「さびしい?」

「思い出すと、ちょっとさびしい……かな」

「さやかちゃんかわいそう。よしよし」

 さやかがうつむくと、女の子に頭を撫でられた。こういうところ、自分は子どもとほとんど変わらないんだなぁと思う。

「さやか、何の話をしているんです?」

 声を掛けられて顔を上げると、呉葉が戸口からこちらを見ていた。さやかはじゅうたんに腹ばいになっている自分に気づいて、苦笑しながら身を起こす。

「何でもない。お仕事の話は終わった?」

「ええ。いつも子どもの相手ばかり任せてすみません」

「ううん、助けになってるならうれしい」

 さやかは女の子も助け起こして、丁寧に彼女の服のほこりを払う。

 女の子はさやかの足にしがみついて、口をへの字にする。

「帰るのやだー……。さやかちゃんともっとあそぶの」

「また遊べるよ。次の遊び、考えておくね」

 女の子は名残惜しそうだったが、さやかは女の子の頭をなでて笑った。

 女の子とその父親が帰った後、呉葉は苦笑してさやかに言った。

「子どもたちが毎度あなたにべたべた触っていると知ったら、兄さんは嫉妬するでしょうね」

「お兄ちゃんは大人だもの。そんなことない」

「どうでしょうか。あなたが知らないだけで、大人げない人ですよ」

 自分の知らないお兄ちゃん。それに思いを馳せて、さやかは新鮮な思いがした。

 子どもの頃からいつも一緒にいる義兄だが、さやかの知らない義兄の顔もきっとあるのだろう。

「あなたを独り占めすることに関しては、子どもみたいな人です。気を付けてくださいね」

 でもあのお兄ちゃんが子どもに嫉妬するなんて。さやかは冗談だと思って、大丈夫だよと笑い返す。

 呉葉はため息をついて、仕事に戻ろうと執務室に振り向いたときだった。

「お声がけしてすみません。急な来客が……」

 事務員が足早に呉葉に近づいて耳打ちする。呉葉の目がさっと鋭さを帯びた。

 呉葉はさやかを裏口の方に誘導しながら、短く告げる。

「さやか、今日は帰りなさい」

「くれは?」

「……そう目の敵にしなくてもいいだろう」

 低い闇色の声が聞こえて、さやかの体にも緊張が走る。

 呉葉は渋面を作って声の方に振り向く。さやかはまだその声の方を見ることができなかった。

「俺だって兄弟なんだから」

 呉葉とさやかのほんの数歩先。そこに、銘座が立っているのがわかったからだった。

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