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28 若頭と小鳥のままごと

 冬の夜は更けるのが早く、さやかが呉葉の事務所から帰宅したときにはすっかり暗くなっていた。

 さやかは一人で夕食を取って、お風呂に入った後、自室で大学の勉強をしていた。義兄の生業がどんなものかまだきちんと理解していないけれど、まずは社会人として基本的なことを学んでおきたかった。

「……あれ、どこにあったかな」

 さやかはふと思い立って、引き出しの中を開いた。そこから豆皿を取り出して、手のひらに乗せる。

「さっちゃん、ただいま。入っていい?」

 そのときノックの音が聞こえて、義兄の声が聞こえた。さやかが返事をすると、義兄は仕事から帰ってきたばかりのスーツ姿でさやかに歩み寄る。

「あ、懐かしい。さっちゃんが小さい頃、ままごとをしたときの道具だね?」

 義兄はさやかの手元をのぞきこんで微笑ましそうな顔をする。

 義父は一番幼いさやかにも十分な遊び道具を与えてくれて、この豆皿は子どものままごとには過分なほど高価なものだと後で聞いた。

 でもさやかにとっては遊び道具は大事じゃなくて、その遊びに一緒に付き合ってくれた義兄との思い出が大きい。

「お兄ちゃんはじきに中学生だったのに、遊んでくれた……。今思うと悪かったなぁって」

「そうかなぁ。俺はさっちゃんがにこにこしてるだけで楽しかった」

 義兄はそんなさやかの幼い遊びにも笑顔で応じてくれた。目を閉じれば二人分の声が蘇る。

 あい、にーちゃ。さやかがあどけなく両手で豆皿を差し出すと、義兄はいつも、ありがとうさっちゃんと、両手で大切に受け取ってくれた。

 寒い夜も雨の日もあったけど、さやかの側にはいつも義兄がいて、さやかを包んでくれた。

「お兄ちゃんは……結婚、するの?」

 ……でもそれがいつまでも続くと思っちゃいけないんだ。さやかは苦い思いがこみあげて、固い声音でたずねていた。

 義兄はさやかの問いかけに、考えたようだった。口ごもる素振りがあって、慎重に言葉を選んでいる気配があった。

 義兄はどこか緊張した面持ちで、そっと口を開く。

「まださっちゃんにこの話は早いと思ってたんだけど。……そうだね。時期を選んで、結婚するつもりだよ」

 さやかは目線を落として、そうなんだ、と口の中でつぶやいた。

 義兄は二十代の後半で、家業を負って立つ若頭という立場なのだから、当然今までにもそういう話はあっただろう。義母から勧められた相手なのか、自分で決めた相手なのかは、さやかにはわからないけれど。

 義兄は黙りこくったさやかを見て、心配そうに言葉をかける。

「さっちゃん?」

 自分だけの義兄だと思っていた。でも、義兄の中にはもう別の誰かがいるのだ。

 さやかはこらえたつもりだった。でもさやかの努力は無為に終わって、豆皿にぽたりと雫が落ちていた。

「聞きたくない……」

 さやかは消え入りそうな声でつぶやくと、椅子を立って寝室の方に向かっていた。

「さっちゃん、さっちゃん! 待って!」

 義兄は慌ててさやかの肩をつかまえると、さやかの頬に手を当てて言う。

「ごめん、俺の身勝手だった……! 忘れて、さっちゃん。俺は今のまま、さっちゃんと毎日暮らしていけたらそれで幸せなんだよ」

 義兄はさやかの背に腕を回して、背中をぽんぽんと叩く。

「さっちゃんは何も変えなくていいし、何も不安に思うことない。さっちゃんを泣かせてまで望むことなんて、何もないんだから」

 義兄はさやかを抱き上げると、自分の部屋の方に足を向ける。

「さっちゃん、いつもみたいに一緒に寝よ。俺と子どもの頃みたいにくっついていよう? ……俺はいつまでだって、さっちゃんのお兄ちゃんだよ」

 いつまでもお兄ちゃん。その言葉は、悲しみに沈んださやかの心に刺さった。

 自分が義兄にしがみついているから、そう言ってくれたのだ。涙の落ちた豆皿を見下ろして、さやかは義兄に申し訳なくなった。

「そっか……。さっちゃんは、結婚は嫌かぁ」

 義兄は一度だけ惜しそうにそうつぶやいたけど、それ以上結婚の話はすることなく、さやかを寝室に連れて行った。

 その夜、二人はいつものようにくっついて眠りについた。けれどさやかは明け方に義兄のベッドを抜け出して、自室に戻った。

 ……ぱたんと机の中に豆皿を仕舞って、さやかはまた滲んできたまなじりを擦った。

 翌日、さやかは大学に行って、意図して情報版を見ていた。以前ちらっと見ていて、記憶に引っかかっていたものがあったからだった。

「私に……お兄ちゃんの幸せの応援が、できるとしたら」

 さやかはそこでチラシを何枚か集めてくると、鞄に仕舞って授業に出かけた。

 その日の授業は寝不足であまり頭に入ってこなかった。幸い講義は一コマだけだったから、午後からは呉葉の事務所でいつものように働いた。

 それで夕方に自宅に戻ってきたときは、疲れていて自室の机で眠ってしまった。

 夢の中で、また義兄とままごとをしていた。幸せな記憶は何度も思い出してしまうものらしい。さやかは夢の中できゃっきゃと笑って、義兄に頭をなでられていた。

 少し意識が上ったとき、側に義兄が立っていたようだった。そっと頭を撫でられて、まだ夢の中なのだろうかと哀しい思いがした。

 このまま夢が覚めなければいいのに。そう思うときほど目は覚めてしまって、さやかは目を開く。

 義兄はまだ側に立っていた。でもさやかをみつめるその顔は、少し青ざめて見えた。

「さっちゃん。……これは何?」

 義兄が机の上から手に取ったもの。……それはさやかが大学からもらってきた賃貸アパートのチラシだった。

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