また大学の情報版の前で立ち止まっている自分を、さやかは迷子のようだと思った。
さやかが持って帰った賃貸アパートのチラシは、義兄が全部破いて捨ててしまった。さやかは怒るというより哀しい気持ちで、またチラシを持ち帰ることはできなかった。
一人で外食したこともない、電車に乗ったことさえない自分が一人暮らしなんて、難しいのはわかっている。でも今のまま、義兄の庇護の中でしか生きられないのも、きっと良くない。
呉葉もこの件に関しては義兄に賛成で、さやかの味方にはなってくれなかった。銘座に頼るのは危険だろうし、きっと過保護な義父もさやかの一人暮らしは認めないと思う。
……頼ることばかり考えちゃだめ。私は大学生なんだから。
そう思って、また情報版を眺めていたときだった。
「さやかちゃん、ルームシェアに興味あり?」
気が付けば三人ほどの男子生徒たちに取り囲まれていて、さやかは反射的に身を縮こまらせる。
病弱で長いこと学校に通えなかったさやかは、友だちという存在もいなかった。けれどさやかがびくりとしたのは、声をかけた男子生徒たちがどこかぎらぎらした目でさやかを見ていたからだ。
確か語学のクラスで一緒だったから、名前を知られているのだ。それはわかるけれど、さやかを追い詰めるように囲まなくてもいいはずだ。
「ここのところアパート探してるみたいだもんな? でもさやかちゃんみたいな子が一人なんて、なんか心配だし」
彼らはみんな派手めの茶髪にピアスで、ぺろりと出した舌にもピアスがついていた。心配とは言ったが楽しむような口調も、さやかには怖かった。
生徒の一人がさやかの顔の横に手をついて、舌なめずりするように言う。
「俺らんとこおいでよ。……さやかちゃんに女の喜び、教えてあげる」
さやかは背筋がひきつって、とっさに声も失ったときだった。
「構内で強引な勧誘活動は禁止、だよ」
涼しげな男性の声が割って入って、生徒の肩をぽんと叩いた。
さやかが見上げれば、白衣を着た背の高い男性だった。目鼻立ちはくっきりしていて華やかな作りをしているが、物腰が柔らかく禁欲的な雰囲気をまとう。
「あ……」
でもさやかが彼の姿に釘付けになったのは、その面差しが義兄にそっくりだったからだった。義兄が一回りほど年を重ねたらこんな風じゃないかと思うほど、その立ち姿は義兄を思わせた。
彼は男性としては華奢で、中性的だった。不良じみた生徒たちが反抗してくるかもしれないとさやかは恐れたが、意外にも男子生徒たちは怯えたように顔を見合わせる。
「……
さやかは男子生徒たちが恐る恐る口にした、その名前に聞き覚えがあった。
華陀は、義母の実家の名前だ。つまり裏社会に通じていて、男子生徒たちはそれを恐れたのだろう。
さっと散っていった男子生徒たちを見送って、華陀は面倒そうにため息をつく。
「あまり苗字で呼ばれるのは好きじゃないんだけどね」
「き、教授」
さやかは慌てて頭を下げてお礼を言う。
「助けていただいてありがとうございました。私に隙があったから……」
「そうだね。希少な小鳥が迷い込んだみたいだった」
華陀はさらっとさやかのことをそう表現すると、ふと義兄によく似た切れ長の目でさやかをみつめる。
「先生?」
「君は、お兄さんの屋敷を出るつもりなの?」
「あ……はい」
親類になら打ち明けてもいいだろうと、さやかは言葉を返す。
「いつまでも籠の中の鳥じゃだめだから……。今、アパートを探しているところなんです」
「お兄さんは反対してるだろう?」
それも知られているんだとさやかは苦笑して、もどかしくなりながらうなずく。
「はい……。でも兄はじきに結婚して……私と暮らすわけにも」
そのとき、華陀はさっとさやかの口の前に指を立てて、人波からさやかを庇うように隠した。
「……まだそれは黙っておいた方がいい」
唇に近づいた指と、彼の低めた声が、さやかの中にざわめきを呼ぶ。
華陀は声を落としてさやかにささやく。
「君の未来のために。……結婚の時期は、とても大事なものなんだよ」
……時期を見て結婚する。義兄の使った言葉と彼の言葉がふいに重なる。
さやかはぽつりと問い返す。
「私の、未来のため?」
もう一つ、彼がさやかの未来のためと言ったことも気に掛かった。もしかしたら親類の集まりで今までに会ったことはあるかもしれないが、彼と直接話したのは今日が初めてのはずだ。
華陀はふと優しく笑って、ぽんと頭をなでるように言葉を投げかけた。
「僕は組の仕事には部外者だから。でも僕は、君が知らない頃から君の成長を見てきた」
華陀はキャンパスの奥を目で示してさやかに言う。
「僕は理工学部の准教授をしている。何かあったら相談においで。……アパートは紹介してあげられないけどね」
いたずらっぽく言葉を付け加えるところも、彼は義兄に似ていた。
構内に予鈴が鳴る。華陀はさっと踵を返すと、あとは振り返らずにキャンパスの奥に歩いていった。