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36 若頭と小鳥とこぼれた宝物

 義兄の母である容子は、義父と離婚した今も千陀家に絶大な支配力を持つ。

 闇金融の世界で千陀家の次点を仕切ってきた、華陀家の長女だ。子どもの頃から事業家としての教育を受けてきて、早いうちから義父と結婚し姐となることも決まっていた。

 その胆力は男以上だと言われ、組の危機を何度も救ってきた。医師免許も持ち、事業家としても大いに才気を発揮して……そして何より、千陀家に三人の息子を産んだ。

「さやかちゃん、私の新しい家にあなただけまだ来てくれていないのよ。残念だわ」

 そんな輝かしい彼女の経歴に唯一影を落とすのが、義父が昔から愛人に入れ込み、最終的には容子と離婚までした事実だ。義父はさやかの母を囲い込んでからはほとんど容子のいる屋敷に帰らず、容子に触れもしなかったと聞く。

 さやかがモニターを見上げれば、そこには未だ白髪も染みの一つもない、女王のような風格を漂わせた女性がいる。

 ……こんなに美しい人なのに。義父はどうして、この人に背を向けて母を選んだのだろう。さやかには未だに信じられない。

 さやかは目を陰らせて首を横に振る。

「私はとても、容子さんの前に顔を見せられない子どもですから」

「お義母さんでいいのよ。あなたが藍紀と深い仲なのは知ってるわ」

 さやかはぴくんと背筋が張りつめる。義兄と結ばれたことは、義母には知られるべきではなかった。呉葉が警告してくれていたのに、どうしようと思う。

 容子は暗い感情は見せず、事実を語るように言う。

「藍紀は将来的にはあなたと結婚すると言っていた。そうね、あの子は昔からあなた一筋だった。一年間様子を見ていたけれど、睦まじく過ごしてもいるようね。藍紀は本気なのでしょう」

「私は……」

 さやかはそんな彼女の前だからこそ、義兄に守られて過ごしてきた後ろめたさを感じていた。裁判官の前の罪人のように、容子の目も見れずにうつむく。

「ずっと兄さんに甘えていました。……出て行くべき、ですよね」

 そのとき、容子は突然くすくすと笑い始めた。こらえきれないとばかりに喉を鳴らして笑っていて、さやかは何か不吉なものを感じる。

「容子さん……?」

「さやかちゃんはかわいいのね。純真で、汚いものと無縁で。……お母さんとよく似ているわ」

 彼女は母のことを口にさえしたくないはずだった。だから今それを言うのは、何かの意図があるのだと気づいた。

 さやかはようやく顔を上げて容子を見た。そこに地獄の底を見てきたかのような暗い目をみつけて、さやかは息を呑む。

「さやかちゃんは、知らなかったかしら。……さやかちゃんのお母さんを「治療」したのは私なのよ」

 さやかは言葉を失って後ずさる。容子は闇色の目でさやかを見据えながら続けた。

「さやかちゃんのお母さんには、心に傷がたくさんあったから。そういう子の心を触るのは簡単なことなの。私も、医師ですもの」

 ふいに容子は優しいような目をして言った。

「……さやかちゃんの心にも、傷がたくさんあるわね」

 さやかはぞくりと背筋に冷たいものが走った。はっと辺りを見回すと、部屋の中の男たちがさやかを追い込むように取り囲んでいた。

 いつの間にか部屋の灯りは消され、包囲の輪のように暗黒がさやかを包んでいた。その中で、画面から迸る光がさやかの頭の中でちかちかと点滅する。

「い、や……」

「大丈夫よ、さやかちゃん。お母さんを見なさい? あなたも、とても穏やかな心でいられるようになるわ」

 さやかは痛む頭を押さえて首を横に振る。容子の言葉一つ一つが、さやかの中を見えない刃で削っていくような心地がする。

「さやかちゃん。……お兄ちゃんだけは、だめよ」

 容子が低く告げた一言が、さやかの中に深く刺さった気がした。

 ひときわ強く画面が光った後、さやかの頭の中に焼けつくような痛みが走った。さやかの意識は照明が消えるように落ちて、どこか深い底に突き落とされたようだった。

 眠っていた感覚はなかった。でも実際に意識はなかったのだろう。

 さやかは夢の中でひどく泣いた。さやかの手の中から宝物がぽろぽろこぼれて、消えてしまう夢。

 さやかは宝物の欠片に手を伸ばして、一生懸命誰かを呼んでいた。涙があふれても宝物の欠片は指をすり抜けて行ってしまって、どうしようもできなかった。

 やがて海の底に足がつくように、我に返って目覚めた。

「お兄ちゃん……」

 にじむ視界で泣きながら目を開いて、最初につぶやいたのはその言葉だった。

 ずくんとした痛みが頭に走る。高熱が出た後のように、体が重かった。

「さやか、気分は?」

 ベッドサイドから覗き込んだ見慣れた顔に、さやかはほっと息をつく。

「……お父さん。あの、悪い夢を見て」

「ずいぶん高い熱を出していたからね。何か飲む? 持ってくるよ」

「ありがとう……」

 いつまでも若々しく端正な父の背中を見送って、さやかはそっと起き上がる。

 淡い赤茶色の家具と紅茶色の照明。見回せばそこはいつもの自分の部屋なのに、一瞬初めて見たような錯覚があった。

 父はまもなく冷たいレモン水を持ってきてくれて、さやかはそれを受け取る。

 レモン水を飲もうとして、さやかはふとつぶやく。

「……おにいちゃん」

 父がその言葉に少し眉をひそめた気配がした。さやかはちりっとした痛みを頭に感じて、そろりと自分に問う。

「お兄ちゃんって、だれ……?」

 ……一人っ子の自分に兄はいないのに、なぜ?

 さやかは自分に首を傾げながら、いつものように父が作ってくれたレモン水を飲みほした。

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