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37 若頭と小鳥の境界

 それから二昼夜ベッドの上で過ごして、ようやくさやかはベッドから出て生活ができるようになった。

 父が言うには、さやかはその前にも一週間入院していたらしい。

「高熱で入院だなんて。私、そんなに体弱かったっけ……」

 さやかが朝食の席で首をひねると、父は顔をしかめてつぶやく。

「……怖かった。このままさやかがいなくなるんじゃないかって」

 さやかはふとリビングの戸棚に置かれた写真を見上げる。

 そこにはまだ若い父と、さやかに目元の似た青年が映っていた。大学の卒業式らしく、博士号のアカデミックガウン姿で、卒業証書を手に二人で笑顔を見せている。

 さやかと父に血のつながりはない。本当は、さやかは父の親友の子どもだ。

 ……さやかの血縁上の父親はやくざの争いに巻き込まれて、今はどこにいるのかわからないのだと聞いた。

 さやかは父に目を戻して、その目がにじんでいるのにはっとする。

「お父さんってば……私は熱なんかで死なないよ」

 さやかは無理に笑って、安心させるように父の手にそっと触れた。

「さ、食事が終わったら掃除しよ。私が入院中で手が回ってなかったの? なんだか部屋の空気が淀んでるよ。しばらく誰も住んでいなかった家みたい」

 さやかはそう言って、朝食を片付けにかかった。

 二人で洗濯をして、床掃除をして、ゴミを出す。日常の匂いが戻って来る。

 さやかはこの家で父と二人暮らしをしている。大学の准教授である父と、大学生のさやか。目立つ財産も目標もないけれど、何に脅かされることもない生活だ。

 午前で片付けが終わったら、二人で近所のスーパーに買い物へ出かけた。

「さやか、何なら食べられる? ずいぶんやせたからな、元気をつけないと」

「ううん、ささみ……かな。油ものはまだちょっと」

「父さんも最近は油ものがきつくてね」

「じゃあお酒もなしね?」

「そうだなぁ。それもそろそろきつくなるのかなぁ」

 二人で笑い合って、食材をかごに入れる。さやかはまだ病み上がりのせいで体が重かったが、こうして父と他愛ないことを話していられるのがうれしかった。

 ふいにさやかはどこかから視線を感じて、きゅっと身を縮める。

「さやか?」

 誰かがこちらを見ていたような気がして、さやかはとっさに震える。

 ……さやかの実の父親はやくざの争いに巻き込まれた。まるで昨日聞いたばかりのように、その事実は鮮明にさやかの心を引っかく。

 さやかは実の父親のことをわずかにしか覚えていない。さやかの父親が行方知らずになったのはそれくらい幼い頃の出来事で、今はさやかの日常にやくざなど現れないとわかっている。

 でもつい最近までやくざの生業や、裏社会のことを理解しようとしていた気がする。どうしてそんな錯覚を持つのか自分でもわからないから、不思議なのだ。

「何でもないよ、お父さん。……私には関係ない」

 さやかは父に笑顔を向けて、足早に店を出た。

 その後ホームセンターで日用品を補充して、家で父と過ごした。相変わらず体は重くて、時々顔をしかめるくらいに頭が痛いけれど、父を心配させたくなかった。

「さやか、どうした?」

 けれどそんなさやかの努力は、父には見透かされてしまったらしい。夕食の準備をしていたら、父に声をかけられた。

「無理をしなくていい。後にひびくほどの大病だったんだ。つらいことはそのまま、言えばいいんだよ」

「……お父さん」

 おいでと父に呼ばれて、さやかはソファーで父の隣に座った。甘え心のまま、少しだけ父の方に身を寄せて言う。

「なんだか……自分が自分じゃないみたいで」

 さやかは思わずそう言ってから、考え込んでしまう。

「病気になる前の自分がよく思い出せないの。一時的なものなのかな……」

 父はそんなさやかの不安を笑い飛ばすことなく、神妙にうなずいて聞いていた。

「まだ体調が回復していないのかもしれないな。家でよく休んで、しばらく……大学も休んでみるか?」

「どうしよう……」

 さやかは大学を休むことは心苦しかったが、一日中外で過ごすことにはまだ自信がなかった。

 さやかが迷っていると、父は優しくさやかの肩を叩く。

「まだ日は明るい。ちょっと散歩しよう」

 父はそう言って、さやかを外に連れ出した。

 空には一番星が見え始めていた。暮れ行く夕陽の中、昼と夜の境界の世界を、父と並んで歩く。

「さやかの名前は、父さんがつけたんだよ」

 ふいに父はそう言って、愛おしむようにさやかを見下ろした。

「さやかな光、星空から取ったんだ……」

 さやかはどうしてかその声が切ないようにも聞こえて、思わず父を振り向いた。

 けれど父はいきなり足を止めてさやかの手を引いた。さやかはその性急さに一瞬呼吸を止めて、父の視線の先を見る。

 夕陽が差す前方から、さやかの足元にまで影が伸びていた。

 それは夜の訪れそのもののように見えた。それほどその人は、闇夜のように日常から切り離された美しさをまとっていた。

 けれど人間ではあったらしい。その人は渇望するように言葉をこぼす。

「……さっちゃん」

 その青年は華やかな容姿に荒んだ空気をまとって、食い入るようにさやかをみつめていたのだった。

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