さやかはその青年を一目見て、自分でも止められないくらいにみつめ返してしまった。
「ずっと探してた……気が狂いそうだった」
やつれた様さえ凄艶で、手負いの獣のように危うい立ち姿の人。尋常でない世界の住民だと気づいていたけれど、さやかは彼から目を逸らすことができなかった。
「そんなにやせて……今までどうしていたの? 一瞬でも目を離すんじゃなかった。大事に大事に、隠しておいたはずだったのに」
青年は不穏な言葉を優しく告げて、さやかに手を差し伸べる。
「いいんだ、さっちゃんは何も悪くない。……帰ろう?」
さやかはまだ青年をみつめたまま動けなかった。彼のことは知らない。しかも恐ろしい世界がその後ろに透けて見えているのに、一瞬その手を取る自分を想像した。
「怒らないよ。何も責めない。だけどもう狂いそうだから……今すぐ帰ってきて。……お兄ちゃんの言うことがきけない?」
けれどお兄ちゃんと彼が口にした途端、さやかの頭に激痛が走った。
「……うぅ!」
それはさやかではどうにもできない力でへし折られる感覚に似ていた。さやかは悲鳴を上げて、父の腕にしがみついた。
「さっちゃん?」
「嫌……ぁ! 助けて、お父さん!」
さやかは涙をあふれさせて震える。青年はそれを見て、愕然と立ち竦んだようだった。
一瞬の後に青年はぎりっと歯をかみしめると、鋭く怒声を響かせる。
「華陀ぁ! さやかに何をした!」
その声に震えたのは父ではなく、さやかだった。一瞬で空気を凍らせる怒声、やはりこの人はやくざだ。怖いと、ただ父にしがみつくしかできない。
青年が近づいてさやかに触れようとしたとき、息を切らして別の声が飛び込んできた。
「兄さん、一人で行っては……あ」
声の後からまた複数の足音が近づく。あっという間に、さやかと父は黒服の男たちに取り囲まれていた。
後からやって来た青年は震えているさやかを見て、慌てて先ほどの青年の腕をつかんで止める。
「いけません! ……さやかの怯え方が尋常じゃない。落ち着いてください、兄さん!」
兄さんという言葉を聞いて、さやかの体がまた勝手に震える。さやかはもう立っているのも精一杯で、とめどない涙を流す。
後から来た青年は数歩離れたところからそっとさやかを覗きこんで、優しく問いかける。
「さやか、どうしました? 兄さんは狂ったようにあなたを探していましたが、決してあなたを傷つけるようなことはしません。僕も、させません。……場所を変えて、話しませんか?」
彼の声は医者が勧めるように穏やかで、それ自体に恐ろしさはなかった。
けれどさやかの芯は恐怖で凍えていた。涙に濡れた目で、ふるふると首を横に振る。
「知らない……人違いです……。放っておいてください。私とお父さんを、無事に帰して……お願い」
「……さやか?」
二人の青年は素早くお互いを見た。それで二人の意思は通じたようで、その連帯感から、二人は兄弟なのだろうと思った。
後から来た青年は、信じがたいというようにさやかに問いかける。
「さやか、僕らがわからないのですか? 呉葉と藍紀兄さんです。あなたの兄弟の……」
「私に兄弟はいません……知らない、知らない……!」
「帰してもらえるかな」
言葉を挟んでさやかの背を優しく包んだのは、それまでずっと黙っていた父だった。
父は彼らを恐れるというより、ただ困惑した様子で言う。
「騒ぎにしたくないんだ。話をしたいというなら後日別の場所で受ける。……でも今は、さやかが怯えているから」
「華陀
「父親だから、じゃだめかな」
父は静かに言葉を返して、さやかをそっと引き寄せる。藍紀と呼ばれた青年が、剥き出しの刃のような目で父を睨む。
「嘘をつくな! さやかはこの場で連れて帰る。無理やりにだって」
「兄さん、さやかは母さんに「治療」を受けた可能性があります」
呉葉と名乗った青年が不本意そうに告げると、先の青年が息を呑む。
「……心を触られたのか、さやかが」
「はい。僕らが今、無理に事実を詰め込んだら……さやかの心が壊れてしまうかもしれない」
「さやかが……」
藍紀は悲痛な目でさやかを見た。壊れたように涙を流し続けて父にしがみついているさやかは、彼の目にも崩れ落ちそうに見えていただろう。
藍紀は先ほどまでの覇気を収めて、子どもが縋るようにさやかに言う。
「さっちゃん、信じてほしい。俺はさっちゃんを傷つけないから。だから、帰ろう……?」
「……ゃ」
彼が伸ばした手を、さやかは恐れのままに振り払う。藍紀の目が絶望の色に染まった。
呉葉はそんな兄とさやかを痛ましそうに見て、父に言葉を切り出す。
「華陀さん、事情はよく聞かせていただきます。……ひとまず明日にでも話し合いの機会を設けたいのですが、シーサイドホテルのラウンジに午前十一時でいかがですか」
「僕は構わない。たださやかは体調が優れないので、僕だけでいいだろうか」
「わかりました。こちらも僕と兄だけで参ります」
呉葉は穏便に話を進めると、立ち竦んでいた兄を振り向く。
藍紀は目に絶望の色をまとったままだったが、ぽつりと問いかける。
「さっちゃん、調子が悪いの?」
あれほど怖がっていた人だったのに、さやかは不思議とその言葉にはこくりとうなずいていた。
「はちみつを入れた暖かい湯を飲むといいよ。あと、体が冷えているかもしれないから、毛布を一枚増やして。寝る時の肌着は綿の優しいものにして。落ち着くから」
藍紀の言葉には、たださやかへの心配だけがあった。だから見ず知らずの人の言葉だったのに、さやかはそれを聞き入れてみようと思った。
「俺がいれば……いつだって看病してあげられるけど。さっちゃん、とにかく安静に……早く元気になってね」
「はい……ありがとう」
さやかは思わずお礼を言って、少しだけ父の腕から顔を上げて藍紀を見た。
藍紀の目はもう怒ってはいなかった。暮れ行く夕陽の中、さやかを覗き込んで……ぽんと優しくさやかの頭に触れた。今度は、さやかはその手を拒絶しなかった。
知らない人……だけど、この人は自分を傷つけない。さやかはどうしてかそう思った。
さやかは彼が何度も振り返りながら去っていくのを、父の背からおずおずと見送った。