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39 若頭と小鳥の重なる既視感

 さやかと父は、お互い言葉を交わすことなく夜の帰路を辿った。

 さやかの兄弟を名乗る二人は、さやかに様々なことを告げていった。でもさやかには別世界の出来事のように聞こえて、実感がなかった。

 さやかは多少体が弱いけれど、普通の大学生で、父と二人で穏やかに暮らしてきた。母はいなかったけれど、父がその分さやかを愛してくれた。幸せといえるものは胸の大切なところにあって、誰にも触れられない宝物だった。

「……お父さん。どこかに隠れているわけには、いかないのかな」

 家の玄関に入ってすぐ、さやかは父を見上げて切り出した。

「あの人たち、やくざ……なんでしょ。私の血縁上のお父さんを巻き込んだ、危うい世界の人たち」

 父はそうだとも、違うとも言わなかった。それを見て、さやかは一生懸命言葉を続ける。

「私、大学を変わってもいい。お父さんを危ないことに巻き込みたくない。明日、話し合いになんて行く必要ない。……もし、もしお父さんに、何かあったら……!」

 自分はこの世で一人になってしまう。そんな哀しささえ胸に迫ってきたさやかを、父はふいに腕に包み込んだ。

「……ありがとう、さやか」

 それは父に初めて包まれるような、不思議な感覚だった。さやかは父の腕の中でまばたきをして、お父さん、とつぶやく。

「いいんだ。こうなることは、さやかと一緒に暮らすのを決めたときからわかってた。藍紀くんは正しい。……嘘ばかりついているのは、父さんの方なんだ」

「そんなこと……」

 違うと、さやかは首を横に振った。病気を患ったばかりでよく思い出せないだけで、元気になれば父との日々が真実だと胸を張って言えるはずなのだ。

 父は少し体を離してさやかを見下ろすと、言い聞かせるように告げる。

「でもさやかを守りたい気持ちは嘘じゃない。父さんはさやかをあちらの世界によこしたりしない。さやかには、温かく優しい世界で生きてほしいから」

 一瞬、さやかは父でない誰かにも同じことを言われたような気がした。さやかにはこの世界には踏み込ませない。優しい世界で生きてほしい。おぼろげな輪郭が、そっとさやかを愛おしむまなざしでみつめていた。それは夢の中の宝物のように、儚く胸を締め付ける。

「……それなら、私も明日行く」

 けれど現実のさやかにとって一番大切なのは父だ。さやかが顔を上げて言うと、父は眉をひそめて首を横に振る。

「さやか」

「お父さんを守りたいの。……私に何ができるかはわからないけど、できることはしたいの」

 守りたい。その言葉も、夢の中のさやかが別の誰かに告げていた。まただと思いながら、さやかは目の前の父をみつめる。

「それで、あの人たちが聞き入れないようなら……今度こそ二人で、どこかに隠れよう? 大丈夫、私はもう大人だから。大学をやめて、働くことだってできるの」

「……さやか」

 父はくしゃりと顔を歪めて、さやかの肩に触れて言う。

「大きくなったね。赤ん坊だった君を抱っこしたのは昨日の出来事のようなのに、月日が経つのは早いなぁ……」

 父は泣くような声でつぶやいて、さやかが同行するのを認めてくれた。

 ただその夜、さやかは真夜中に目覚めてしまった。どうにも体が冷える感覚に、熱でもあるのかなと不安になった。それでふと、藍紀の言葉を思い出した。

 毛布を一枚出して、綿のパジャマに着替える。リビングに行って、はちみつを垂らした温かい湯を飲む。

「あったかい……」

 日中は陽射しも温かくて大丈夫と楽観していたけれど、思っていたより体は冷えていたようだった。それもさやかの体質が冷えやすく、特に夜は温めないといけないことを、あの青年は知っていたようだった。

 自分も知らない事実を見知らぬ他人が知っている。それは恐ろしいことのはずなのに、不思議と怖くはなかった。あの青年がさやかをみつめた目は優しさで満ちていて、今さやかの体に宿っている温もりのように体を楽にしてくれた。

 二度目の眠りの中で、あの青年がこちらを見ている夢を見た。さっちゃん……さっちゃんと、愛称で繰り返しさやかを呼んだ。

 さやかもあの青年を、ずっと知っている名で呼ぼうとしたが、できなかった。……さやかちゃん、それはだめよと優しいような命令がどこかから聞こえて、さやかの喉を詰まらせた。

 目覚めたさやかは心に穴があいたような気持ちで、自分の喉をさすった。肌触りのいい綿のパジャマは、体温が下がった朝には少し重く感じた。

 朝食を取って、父と一緒に支度をする。電車を乗り継いだ先に、その海辺のホテルはあった。

「さっちゃん?」

「……あ」

 ラウンジで出迎えた藍紀は、昨日のように荒んだ様子ではなく、落ち着いたブルーグレーのジャケット姿と同色のスラックス姿だった。華やかな風貌に似合う、洒落た紳士。それが彼本来の姿だったような気がして、さやかは少し彼をみつめてしまった。

 藍紀と一緒に来た呉葉もベージュのジャケットを涼しげに羽織り、後ろ暗い世界とは無縁に見えた。一見すると、裕福な事業家の兄弟という感じだった。

「あの……私も、同席していいですか?」

 けれど昨日の彼らの気迫を忘れたわけではない。今日は恐ろしい世界の人たちと話し合いをしなければいけないのだ。そういう緊張で、さやかはそろそろと問いかけた。

 藍紀は心配そうに目をかげらせて言う。

「構わないけど……体調は大丈夫? 無理しなくていいからね。下に休める部屋を取っておこう」

 一瞬、彼は今までもさやかのために休める部屋を確保してくれたような、そんな錯覚があった。

 さやかはおずおずと頭を下げて、隣に座る父を見やってから言葉を切り出す。

「ありがとう、ございます。……では、お話をうかがって、いいですか」

 そうして、四人での話し合いが始まった。

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