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40 若頭と小鳥の思いの交錯

 オーシャンビューのラウンジで、さやかと父はさやかの兄弟を名乗る二人と向き合った。窓際のボックス席では一面透き通るような空が見渡せて、これから始まる話し合いがなければ、さやかも景色に目を細めていた。

 一瞬の沈黙の後、一番に口を開いたのは藍紀だった。

「先に言えば、本当は今すぐさやかを連れて帰りたい」

 藍紀は乞うようなまなざしでさやかを見て、つっと父に目を移す。

「ただそれはさやかの心に負荷をかけすぎると、父に諭された。母の「治療」がどれほど心に作用するか、父はよく知っている」

「……君たちの父に話したのか」

 さやかの父が渋面を作ってつぶやくと、藍紀は目に怒りをにじませて告げる。

「当然だろう? さやかは俺たちの家族だ。父は母のしたことに怒りも隠さなかった。ひとつまちがえば、さやかの心を壊すかもしれないことなんだから」

「だが君たちの父もかつて黙認したことだろう。……ひなこさんの心が壊れるのを、むしろ望んでいたかもしれないね」

 さやかの父の声にも怒りがにじんだ。それを聞いて、呉葉が言葉を挟む。

「華陀さん、あなたが僕ら家族を恨んでいるのはわかっています。詫びは、僕や兄で済むならいくらでも。……けれどまずはさやかを守ることを合意できませんか? あなたも僕らも、さやかには健やかでいてほしいはず」

 さやかの父はそっとさやかを見やって瞳を揺らした。それが父親としての愛情なのだと、さやかは言葉で聞かなくともわかった。

 さやかの父は自らを鎮めるように、声を落として言う。

「わかった。さやかの身の安全を最優先にすると約束する。……そうでないと、こちらも何も話せない」

 それを聞いて、藍紀と呉葉は目線を合わせて意思を確認したようだった。

 藍紀はまたさやかを見て、気がかりそうに父に問う。

「では訊くが、さやかはどうして俺を見て怯えている? 母は、さやかの心にどんな負荷をかけたんだ?」

「……「兄さんは恐ろしいものだ」と刷り込んだのだろう」

 藍紀が訝し気に首を傾げると、父は沈んだ調子でつぶやく。

「かつてのひなこさんにも、同じことをした。ひなこさんは従兄であり、夫でもあった人を「お兄様」と呼んで慕っていた。……彼を裏切って極道の愛人になった罪悪感が、ずっと彼女を苦しめていたから」

「罪悪感……」

「さやかにもそれがあったのだろう。だから容子さんに付け込まれた」

 全員のまなざしがさやかに集中する。藍紀は哀しいまなざしでさやかを見て、そっと問う。

「さっちゃん……俺といることがさっちゃんを苦しめていたの?」

 さやかは皆のまなざしに戸惑って、思わずうつむいた。

「……わからない、です。私、藍紀さんのこと、覚えがないので……」

 さやかは三人の会話に、自分だけが入れていない気がした。彼らが話しているのはさやかのことのはずなのに、自分の知らない人のことを話しているように聞こえていた。

「でも、夢の中で誰かを「お兄ちゃん」と呼ぼうとすると……心が手折られるように痛い。私はその人と一緒にいちゃいけないって、声が聞こえる……」

「そんなことない!」

 藍紀はさやかに振り向いて、切ないような声で言う。

「俺とさっちゃんはずっと仲のいい兄妹として過ごしてきたんだ。誰に咎められる筋合いもない。……ただ母さんが許せなかったのは、俺とさっちゃんが」

「兄さん」

 呉葉はさやかの様子に目配せして、そっと言葉を挟む。

「今はさやかに兄弟だと認めてもらうのが先です。たくさんの情報は、さやかが困ってしまいます。……さやか」

 呉葉はつとめて穏やかな声で、さやかに声をかける。

「あなたが忘れてしまっても、僕らはあなたを大切な家族だと思っていますよ。だから怖がらなくていいんです」

「大切な家族……兄弟……」

 家族、兄弟、それは愛おしいもの。素直なさやかの心に、すんなりと入って来る気持ちだった。

「……はい。きっと私は忘れていることがあるんだって、わかりました。思い出してみるために……努力します」

 さやかはそう認めてから、そっと隣を見上げる。

「でも私、お父さんとは家族のままでいていいですか? お父さんは……今の私の、心の支えなんです」

 父がくしゃりと顔を歪めるのが見えた。さやかは父の腕に、安心させるように触れる。

 さやかは父を見ていて気付かなかったが、藍紀はそれを苦しげにみつめていた。呉葉はそんな兄の心を察して、深く息をつく。

 藍紀はさやかが自分の方に目を戻すまでには、切なる感情を収めてみせた。無理に笑顔を作って言う。

「……うん。お父さんと暮らすままでいいよ。だから、さっちゃん。少しずつ俺たちのところに来て、思い出して。兄妹が一緒に過ごすのに、悪いことなんてないだろう?」

 藍紀は優しい兄の表情で、さやかに言葉をかける。

「俺は、ずっとお兄ちゃんだよ。だから……側にいて」

 藍紀のそれは何気ない言葉だったはずなのに、さやかにはどうしてか哀しく聞こえた。

 それから藍紀の家を訪ねる日取りを打ち合わせて、話し合いは穏便に終わった。

「さっちゃん、ここ展望台があるんだよ。一緒に見に行こう?」

 さやかと父が帰る前に、藍紀はそう声をかけた。年の離れた兄が妹を可愛がる、そんな感情が透けて見える言葉に、さやかも警戒を解いてうなずく。

「はい、藍……」

 けれどさやかが駆け寄ろうとしたそのとき、藍紀の足がふらついた。

 とっさにさやかは藍紀の体に手を伸ばす。触れた体がひどく熱いと、感じたのは一瞬だった。

「藍紀さん……っ」

 さやかの腕をすり抜けて、藍紀はその場に崩れ落ちた。

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