水を打ったような静寂に落ち着くまで、さやかは動悸が止まらなかった。
運び込まれたホテルの一室で、藍紀が診察を受けて眠りに落ちたのは数刻前のこと。それまで、さやかは長い間側にいた人が失われるような不安を抱えていた。
「藍紀さんは……大丈夫なんですか?」
知らない人だと思っていた。やくざで、父に危害を加えるかもしれないと警戒していた。でもどうしてかさやかは、藍紀のことが心配でたまらなかった。
部屋の窓際で椅子を寄せて、さやかはそっと呉葉にたずねる。
呉葉は兄を起こさないように、声をひそめて答えた。
「ここ二週間ほど、兄さんは昼夜関係ない生活でしたから。ほとんど食事も睡眠も、まともに取ってなかったんです。……一刻も早く、あなたをみつけるために」
「私を探して……ですか」
さやかにとって、そう言われているのが自分だとはとても実感が湧かない。呉葉はうなずいて言葉を続ける。
「今朝は発熱もしていて、僕一人で向かうと言ったのですが……自分で早々に栄養剤を打ってしまって。……「さやかに会いたい。絶対に行く」と言い張るんです。気力だけで来たようなものですね」
呉葉はため息をついて、彼自身も疲れをにじませてつぶやく。
「兄さんは何でも自分で出来てしまう人です。だからそんな兄さんを止められる人は本当に少ししかいない。……さやか、叱ってやってくれませんか」
「私が……?」
呉葉が語る、自分の知らない自分。さやかはそれに戸惑って、じっと藍紀の方を見てしまう。
呉葉はさやかの視線の先を見やって、苦笑を浮かべた。
「兄さんはあなたがかわいくて仕方がない。あなたからは何を言われても言う通りにする。あなたに対しては、子どもみたいに純真な人なんですよ」
呉葉はそう言って、少し外します、と席を立った。
部屋に藍紀と二人きりになったさやかは、迷った後、そっと藍紀の枕元に腰を下ろした。今は安らかな寝息を立てている藍紀を、側でまじまじと見守る。
綺麗な横顔。でも顔色が悪くて、哀しそう。私のせい……?と思ったとき、藍紀の睫毛が動いた。
藍紀ははじめ、さっと辺りを警戒するように見た。それが彼の習慣のようだった。
けれどさやかと目が合うと、溶けるような甘いまなざしに変わる。
「……さっちゃん? いてくれたんだ」
さやかは何と言葉を返せばいいのか、とっさにはわからなかった。倒れるくらいに自分を探し回ってくれた人。でも、さやかにはどうして彼がそこまでしてくれたのかわからない。
さやかの心配そうなまなざしを見て取ったのだろうか。藍紀は申し訳なさそうに言葉を切り出した。
「ごめんね、びっくりしたでしょ。さっちゃんと少しでも長くいたかったのに、意識が落ちちゃった。鍛え方が足りないなぁ。二週間くらいでこのザマなんてね」
藍紀は自嘲気味につぶやいて、哀しそうにさやかを見上げる。
「俺が探してる間……さっちゃんは入院までして、もっと苦しい思いをしてたのにね。もっと早くみつけてあげたらよかったね。それより……俺が目を離さなきゃ、さっちゃんが心を触られることもなかったのにね。……ごめんね」
ふいにさやかの目から涙が落ちた。自分でも、自分の感情の正体がわからなかった。
……なんで、この人は。ふいに憤りがこみ上げてきて、さやかは言う。
「私のことばかり……心配しないで。もっと自分のこと、気遣ってください……!」
彼がどうして自分をそんなに思ってくれるかはわからなくても、その心配の気持ちは痛いほど伝わってきた。さやかはしゃくりあげながら、言葉も途切れがちに怒る。
「若頭、なんでしょう……? あなたのこと、心配してる人、いっぱいいるのに……! 呉葉さんも、心配してた……私じゃ、なくても。私はきっと足を引っ張って、迷惑かけていた、でしょう……?」
「さっちゃん。泣かないで。……もう。さっちゃんはほんとに、かわいいんだから」
藍紀は少し体を起こして、悪戯っぽく問う。
「……ねえ、さっちゃん。俺がわざと倒れたとは思わないの?」
「え……」
「俺たちは悪い世界の奴らだよ。さっちゃんみたいな純真な子、だますのが大得意だよ?」
さやかは思わず息を呑んで藍紀を見る。藍紀はにこっと笑って、さやかの額にキスを落とした。
「ほら、隙だらけだよ。さっちゃん?」
「藍紀さん! えっ、わ、な、何するんですか!」
「何って、いたずら。お兄ちゃんとよくこうして遊んだでしょ? 忘れたの?」
「えっ……あ、えう」
さやかが慌てて藍紀を振り払うと、藍紀は頬杖をついてくすくすと笑う。
さやかが真っ赤になって藍紀から距離を取ると、ふいに藍紀はぽつりとつぶやく。
「……涙、止まった。さっちゃんが泣くのはつらいからさ」
一瞬聞こえた声は、兄が妹にかける声とは少し違っていた気がした。
さやかが見返したときは、藍紀は元のようにお兄ちゃんの顔だった。優しくさやかに言う。
「叱ってくれてありがとう。……大好きだよ、さっちゃん」
さやかはその降り注ぐような慈愛のまなざしに、いつしか怖さを忘れている自分に気づいたのだった。