父と家に戻ったさやかは、どこか上の空で父と夕食を取っていた。
「さやか、こぼしてるよ」
「……あ。ご、ごめんなさい」
さやかは父に言われて、スプーンから豆を落としていたことに気づく。みっともないと慌てるさやかに、父は向かいの席で苦笑した。
「いろんなことを聞かされて驚いてる?」
「うん……。藍紀さんたちは私を兄妹だって言ってたけど、本当なのかな」
さやかは食事の手を止めて、ぽつぽつと話す。
「藍紀さんは私に話す言葉だとか、表情だとか、とても優しくて。でも、やくざ……なんだって、わかってる。今度家を訪ねる約束をしたけど、関わってよかったのかな。私はお父さんとこうして暮らしていければ、それでいいのに……」
「父さんもだよ」
父はうなずいて、さやかの心に添うように相槌を打つ。
「さやかの未来のためには、やくざと関わりはない方がいい。さやかが不安なら、今からでも関わりを断ってくれるように話してみようか?」
さやかはうつむいて考え込む。
思い出すのは藍紀の優しい声、さっちゃんと呼ぶときの甘い表情。さやかがかわいくてたまらないのだと、さやかに向けるすべてで語っていた。その瞳にいろいろな感情が押し殺されていて、話したいことが山ほどあったのに、さやかの心のために控えてくれたようだった。
「私は……」
私が望めば、藍紀さんと関わりを断つことも、できる……? そう思ったとき、胸に押し寄せたのはまぎれもない哀しみだった。
心の所在はどこでもないはずなのに、さやかはおずおずと自分の胸を押さえていた。藍紀のことを考えると、ずくんずくんと痛んでいる気がした。
怖いのかな。だって、やくざだもの……。でも、同時に藍紀のことを考えると胸がいっぱいになって、あふれそうになる。
さやかは胸の内が騒いで落ち着かなかった。深呼吸をして、ふるふると首を横に振る。
「……一度は約束通り藍紀さんの家を、訪ねていい? そうしたらもう行かないから。私は……お父さんとの、生活を取る」
「……そうか」
父はさやかの言葉を、ほっとしたように受け止めてくれたようだった。優しい目でさやかを見下ろして言う。
「わかった。一回だけ訪問してみるといい。……それが終わったら、引っ越すか? 藍紀くんたちの知らない土地に」
「……お父さん」
「さやかを守るためだからな。父さんも覚悟を決めるよ」
それからは二人で今後の相談をした。父の転職先、さやかの新しい進学先、まだ見ぬ暮らしのことを。
それは多難な未来ではあったけれど、父と一緒なら過ごしていけそうな気がした。今さやかの心に立ち込める得体の知れない感情からは、少なくとも自由になれる。
夜遅くまであれこれと父と話をして、やがて順番にお風呂に入った。
父とおやすみを言い合って部屋に入ったさやかだったが、また夜中に目が覚めてしまった。体が冷えているかもしれないと、リビングに出る。
すっかり闇に落ちたリビング。ふと、父の部屋から灯りがもれているのに気づいた。
「お父さん……?」
父の部屋から話し声が聞こえていた。聞き耳を立てるつもりはなかったが、思わず吸い寄せられるようにそちらに向かってしまう。
父は足音でさやかに気づいたようだった。父はおいでとさやかを呼んで、さやかは父の部屋に立ち入る。
父はパソコンで誰かと通話していた。父に促されるまま、さやかはそっとモニターを覗きこむ。
「さやかちゃん、具合はどう?」
そこで大輪の薔薇のような女性に声をかけられて、さやかは一瞬頭の中で何かがねじれるような錯覚を感じた。
さやかはめまいを感じて、机に手をつきながらどうにか言葉を返す。
「……容子さん。え、と……ここのところ調子良かったのに……」
さやかはぜえぜえと肩で息をして、自分の変調に戸惑う。
容子は甘く微笑んで、撫でるように優しく言う。
「言ったでしょう? あなたは治療中なの。それなのに、いろいろ余計な情報を入れられて混乱してしまって。かわいそうに」
「治療……何の、治療でしたっけ……?」
主治医の容子が言うのだから、何か重大な病気だったはずだ。でもちかちかする画面を見ているうちに、頭の中が歪んだパズルのように崩れていく。
容子は心のひだをなでるように、ざわつく声で告げる。
「体と心の病よ。……さやかちゃんは藍紀に凌辱されたの」
ひくっとさやかの体がひきつる。その言葉はさやかの心を氷点下に連れて行くのに十分なものだった。
「藍紀さん、に……?」
「そうよ。兄妹なのに、あなたを愛人にしようとしたの。許されないわね」
優しい人だと思っていた。けれどそれは全部嘘だったのだと、容子の声がさやかに教えこむ。
「あ……う」
さやかが震えながら何も言えないでいると、容子は続ける。
「大丈夫よ。治療を受け続ければ、つらい記憶は忘れられるわ。……私があなたを守ってあげる」
さやかを守る。その言葉は、瞬間的に父の言葉と重なった。
見上げれば、モニターの光を下から受けた父の横顔が見えた。優しい父のはずが……さやかを見下ろす庇護の目は、どこか狂気じみても見えた。
モニターの映像は歪んで、もう容子は映っていなかった。色の混ざり合った砂嵐のように見えていて、さやかの視界がぐにゃりと歪む。
容子はくすりと笑って告げる。
「……もうちょっとよ。あなたごと取り替えてあげるからね」
落ちていく意識の中、さやかの背中を父が受け止めた、その手だけを感じていた。