また悪い夢を見た。さやかは何度目かの重苦しい朝に憔悴していた。
大学は休んでいて、毎日のように容子のカウンセリングも受けているのに、体も心も削れていくようだった。退院したときからさらに体重が減って、外出もほとんどできなかった。
「さやか、ちょっとでも食べた方がいい。……どんなものなら食べられる?」
父はさやかを心配して、たびたび休みを取ってさやかについていてくれた。でもさやかは力なく首を横に振って、無理に笑う。
「朝が弱いだけなの。昼になれば少しは食べられるから、大丈夫。お父さんは仕事に行ってきて。……今の大学では、最後の講義になるかもしれないんでしょう?」
父は大学に長期休業の願いを出していて、密かにさやかとの引っ越しの準備をしていた。そうやってさやかを優先してくれる父にだけは、心配をかけたくなかった。
でもさやかの気遣いは父をかえって心配させたらしい。父はさやかの顔を覗き込んで言う。
「……藍紀くんの家への訪問は断ろう。さやか、行ってはだめだ」
藍紀たちとの話し合いから十日が経つ。今日、さやかは藍紀の家を訪ねることになっていた。
父にも容子にも止められている。さやかも藍紀を恐れるべきだと思うのに、約束の訪問はどうにか果たしたかった。
……さっちゃんと優しい声で呼ばれて、愛おしむような表情でさやかをみつめる藍紀のことが、どうしても頭から離れなかった。
さやかは父をみつめ返しながら微笑む。
「心配性だね、お父さんは。ちゃんと帰って来る。それで、お父さんと引っ越すの。約束する。だから行かせて」
父は心配でたまらないという顔をしていた。さやかはそんな父の腕にそっと触れて、願うように告げる。
「私は病気になる前のこと、まだ全然思い出せないけど……思い出せないままでもいいと思ってるの。それくらい今、穏やかな気持ちだもの」
さやかは顔を上げて、父を安心させるようにうなずく。
「……じゃあ、行って来るね」
さやかはそう言って、父の腕から指を離した。
玄関の外では、迎えの車が来ていた。ご近所に気を配ってくれたのか普通のセダンで、さやかはほっと安堵した。
天気は重苦しい曇天で、じきに大雨が降り出す気配がしていた。
車が走り出しておよそ三十分、都心の高級住宅街のただ中にその屋敷はあった。隅々まで庭師に手入れされた立派な庭が広がっていて、その中央に海外の貴族の邸宅のような洋館が建っていた。
厳重なセキュリティゲートを通った後、玄関に車が横づけされる。さやかがおずおずと車から降りると、そこに藍紀が待っていた。
「さっちゃん……痩せた?」
屋敷の主人が玄関まで出迎えに来てくれるとは思っていなかった。さやかが驚いてとっさに何も言えないでいると、藍紀はさやかを一目見るなり顔色を変える。
「具合が優れないの? おいで、部屋で休もう」
そう言って、藍紀は軽々とさやかを抱き上げた。
「え……だ、大丈夫です。自分で歩けます」
さやかは子どものような体格だけど、さすがに自分は大学生だという自覚がある。でも藍紀は慣れた様子で、歩みを止めないままさやかを見下ろす。
「やっぱり軽くなったよ、さっちゃん。……俺が側についていたら、こんな風に体重を減らすことなんてなかったのに」
藍紀の口調に悔しさと、少しの嫉妬らしいものが混じった。ぎゅっとさやかを包む腕を強めて、さやかの髪に頬を寄せる。
「あ、藍紀さん。私、大学生です。お、下ろしてください」
近すぎる距離にさやかがわたわたすると、藍紀は甘い微笑みをこぼして言う。
「だーめ。さっちゃんはさっちゃんだもの。離してあげない」
恋人に向けるような表情にさやかが戸惑っていると、藍紀はさやかを抱いたまま階段も上ってしまう。長い廊下を歩いて、やがてどこかの部屋に入った。
そこは部屋の向きや窓からの陽、空調が計算されつくされているのを感じた。どこかの保養所のように空気が澄んでいて、さやかは深く安心した自分に驚いていた。
設備だけではなく、部屋全体を包んでいる赤茶色の灯りや、戸棚に所せましと置かれた可愛いぬいぐるみも、さやかが大好きなものだった。
さやかが問うように腕の中から藍紀を見上げると、彼はうなずいて答える。
「さっちゃんの部屋だよ。……いつ帰って来てもいいように、毎日着替えも、寝具も用意していたんだ」
藍紀は一瞬混じった哀しみを、愛おしむような微笑みで隠した。後ろ手で扉を閉めると部屋を横切って、そっとソファーにさやかを下ろす。
「さっちゃん。今日はよく来てくれたね」
「はい……お邪魔します」
さやかがおずおずと頭を下げると、藍紀はくすっと笑う。
「話したいことはたくさんあるけど、まずは日課の診察からね」
「日課の……診察?」
藍紀の言葉を聞いて、さやかは不思議そうに問い返す。
藍紀はうなずいて椅子を引き寄せると、さやかと正面から向き合った。