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44 若頭と小鳥の宝物

 それから藍紀が始めたのは問診と計測で、確かに彼の言う通りの診察だった。

 昨日は何時頃に寝付けたかをたずねたり、聴診器でさやかの心音を聴いたり、血圧を計ったりした。

 さやかははじめ体に触れられるのに緊張したが、藍紀の目にはどこにも野蛮な色はなかった。藍紀は始終医療行為として冷静にさやかの体を診てくれて、さやかを怖がらせなかった。

 診察を終えた後、藍紀は手ずからさやかの着衣を整えてくれた。ブラウスのリボンまで丁寧に結んでくれて、さやかはその甲斐甲斐しさに戸惑いながら問う。

「藍紀さんは……医者、だったんですか?」

「そうだね。千陀家は金融業の傍らで医療にも深く携わっているから。……俺は母のように、その仕事で金を動かしているわけではないけど」

 母のことをつぶやいたとき、藍紀は苦い顔をした。さやかが首をかしげると、藍紀はさやかを見返しながら言う。

「ただ、俺はいつもさっちゃんの具合を診てあげたくて資格を取ったようなものなんだ。さっちゃんは小さい頃から、とても体が弱かったから」

「私を診るため……」

「それでよかったよ。さっちゃんの変調に、すぐに気づける」

 藍紀は手元のノートに書き込んでから、さやかの方に振り向く。

 そこで彼は、医者としての冷静さを収めたようだった。藍紀は途端に切羽詰まった表情に変わって言った。

「さっちゃん、顔色も数値もひどい状態だよ。何がさっちゃんを苦しめてる?」

「……え?」

「俺に教えて。さっちゃんに害なすものは何でも取り除いてみせるから」

 さやかは藍紀の向けてくる心配に、どうにか安心させようと返す。

「いいえ、私の体が弱いのは元からなんです。病気が後を引いているだけで……治療だって、受けていて」

 ふいに藍紀の目が鋭さを帯びる。彼はさやかの言葉を素早く繰り返した。

「「治療」? どこの病院で?」

 さやかはしまったと口をつぐむ。容子が言うにはさやかの変調は心の病で、人に伝えてはいけないと言われていたからだ。

「……本当に、大した病気じゃないんです」

 さやかは藍紀から目を逸らして、首を横に振った。藍紀はまだじっとさやかをみつめていて、さやかの表情から何かを読み取ろうとしているのがわかった。

 さやかが口を閉ざしてしまったのに気づいたのだろう。藍紀は小さく息をついて、真摯に告げた。

「怖がらないで。俺はさっちゃんに元気になってほしいんだ。……側にさっちゃんがいないのは、色を無くした日々のようだけど」

 藍紀は苦い思いを収めて、明るく切り出す。

「……今はさっちゃんがちょっとずつ、俺のことを思い出してくれたらそれでいい。さ、ここはさっちゃんの家なんだから、どんな風に過ごしたっていいんだよ?」

「藍紀さん……」

「ベッドで好きなだけ怠けたっていいし、書庫だって庭だって、さっちゃんの落ち着くところで遊んだらいい。どこでも案内するよ」

 さやかはその労わりに満ちた言葉に、じわりと心が和らいだ。藍紀はさやかが何かを隠しているのに気づいても、追及しないでいてくれる。

「ありがとうございます……じゃあ、案内をお願いできますか?」

 さやかがおずおずとお願いすると、藍紀は笑って、もちろんとうなずいた。

 それから藍紀はさやかの体に無理がないように、ゆっくりと屋敷の中を案内してくれた。ダイニングや庭、キッチンや書庫、どこも隠さずに見せてくれた。

「さっちゃんは庭仕事が好きだったんだ。今は庭師に言って、さっちゃんの代わりに畑を整えてる」

 それで知ったのは、藍紀はさやかがいつ帰って来てもいいようにと、さやかがいた頃と何もかも変わりない状態で屋敷を保っていることだった。

「さっちゃんははちみつとか、かぼちゃとか、甘い食べ物が好きでさ。それを食べてほっこりした顔になってるさっちゃんは、本当にかわいいんだ」

 さやかが好きだった食べ物、さやかのお気に入りだった本。それらの一つ一つを、藍紀は目を細めて愛おしそうに話した。

 今のさやかは、食も興味も細っていて自分の好きなものが何だったのかもよく思い出せない。でも藍紀がさやかのことを理解していてくれたのは痛いほどわかった。さやか自身もわからなくなっているさやかを、優しい目でみつめていてくれたことも。

 ……思い出したい。藍紀さんと過ごした日々は、きっと幸せだったに違いないから。そんな思いがこみ上げてくるのに、体は思うように動かない。

 次第に息切れしてきたさやかに気づいて、藍紀はそっと言った。

「そろそろ部屋で休もう? 抱いていってあげる」

「いいえ、もうちょっと……」

 藍紀は首を横に振って、優しく告げた。

「無理しないで。またいつでも来たらいいから。さっちゃんの体の方が大事なんだよ。……さ、行こ」

 さやかは藍紀の腕に包まれて、そのぬくもりに甘えさえ抱いている自分に気づく。

 ……これだけ優しい人が、本当に自分を凌辱などするだろうか? 頭の中の声は藍紀が恐ろしい人だとささやくけれど、さやかの中にはそれを信じられない自分もいる。

 空を覆う曇天は次第に雨に変わっていた。真昼だというのに辺りは真っ暗で、空にはちかちかと雷も混じる。

「さっちゃん、熱があるんじゃない?」

 さやかの部屋だというところに戻ってきたときは、さやかはぐったりとしていた。藍紀は顔をしかめて、さやかをベッドに横たえながら言う。

「冷やすものを持ってきてあげる。誰か、飲み物を……」

 藍紀が使用人を呼ぼうとしたときだった。

 張り裂けるような雷鳴が轟いて、電気が落ちた。辺りは真っ暗に沈んで、外の雷ばかりがまぶしく光る。

 その光を目にした途端、さやかの頭が耐えられないくらいに痛んだ。

「う……」

「大丈夫だよ。自家発電があるから、じきに明るくなる」

 藍紀がさやかの手を包んで安心させるように告げる。

 でもさやかの心に落ちたのは雷より鮮烈な恐怖だった。さやかは自分が自分でなくなるような錯覚を覚えた。

 さやかは頭を押さえて悲鳴を上げる。

「……嫌ぁ! 痛い、痛いの……! やめて、容子さん……!」

「さっちゃん?」

「もう、光はやだ……ぁ! 画面、見たくない……の……!」

 涙がこみあげてきて、さやかは子どものように泣きわめいていた。

 藍紀は顔色を変えて、ごくりと息を呑む。

「……また母さんはさっちゃんを傷つけたのか」

 さやかは心も体も、真っ暗な世界にいた。その中で、藍紀と触れているところだけが生きた感覚だった。

 暗闇の中、藍紀は低い声でつぶやく。

「二度目はないと、言ったはずなのに。そこまで愚かな人だったとは」

「いやぁ……う、うう!」

「さっちゃん」

 ふいに藍紀はさやかをぎゅっと腕の中に包むと、優しくささやく。

「大丈夫だよ、さっちゃん。……かわいい、かわいい、俺の宝物。そうだよ。さっちゃんがいれば何も要らないんだ」

 藍紀はさやかの背を撫でて、さやかの髪に頬を寄せる。

「……お兄ちゃんはさっちゃんのためなら、どんな悪にでもなるからね」

 自家発電が動いたのか、辺りに光が戻って来る。

 藍紀はそっとさやかの涙を拭ってくれて、少しだけさやかの視界がクリアになる。

 さやかが目にしたのは静かに笑っている藍紀で、彼は狂気じみた優しい目でさやかをみつめていたのだった。

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