藍紀の家を訪問した日、さやかは熱を出してそのまま寝付いてしまったらしい。
らしいというのは、さやかはそれからずいぶん長いこと夢の中を漂っていて、記憶がほとんどないからだった。
おぼろげながら思い出すのは、さやかはその間、とても静かな気持ちで療養できたということだった。
毎日のように容子のカウンセリングを受けることもなく、ちかちか光る画面を見ることもない。
ただ目を覚ますたびに藍紀が側にいて、さやかの頭をなでては、食事をさやかの口に運んで、大丈夫だよと励ましてくれた。……そうやって包み込まれる時間をずっと求めていたのだと、さやかの心が震えた。
ある日、さやかは生まれ変わったような心地よい気分で目を覚ました。肌触りのいいお気に入りのパジャマに包まれていて、頭痛はどこにもなく、視界もクリアだった。
「もう起き上がって大丈夫なの」
ちょうど部屋に藍紀が入って来て、さやかの枕元に座ったところだった。さやかは藍紀の姿をみとめると心が安らいだが、慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます。ずいぶん親切にしていただいて……お礼は、必ず」
「いいんだ。さっちゃんが元気になってくれれば何にも要らないよ」
藍紀はさやかの頬に触れて、そっと目を覗き込む。
「ずいぶんひどく心を触られてたみたいなんだ。記憶はすぐには戻らないと医師が言っていたよ。……さっちゃん、つらかったね」
心配そうにみつめる、その瞳に嘘なんて見当たらない。
さやかは一時でも藍紀を怖がっていた自分を反省した。兄だというのはまだ思い出せないけど、この人は確かに自分と近しい人だ。そういう実感が生まれていた。
藍紀はふいに微笑んでさやかに言う。
「でも顔色がよくなって、安心した。体重も戻ってきたみたいだしね」
「藍紀さんのおかげです。あの、何か私にさせてください。藍紀さんの、望むことを」
「そんなことやくざに言っちゃうの?」
藍紀は茶化すように喉を鳴らして笑う。
けれど藍紀は思案したようで、一拍後に切り出した。
「ちょうどお願いするつもりだったんだ。……さっちゃん、あと一週間この家にいてくれる?」
「え……」
さやかが目を見張ると、藍紀は微笑みをたたえたまま続ける。
「一週間で、けりをつけてみせるから。その間、さっちゃんをここで保護していたいんだ。いい?」
「一週間……」
さやかはその長くて短いような期間を思った。「けりをつける」というのは何をするのだろうと不思議にも感じた。
藍紀はじっとさやかをみつめたまま、諭すように言う。
「さっちゃんが落ち着くように過ごしたらいい。何でも取り寄せるし、体をよく休めてほしい。……ただ、屋敷の外には出ないで。どんな妨害が入るともわからないから」
ただ藍紀のまなざしは真剣で、微笑みとは裏腹に力のある言葉だった。必ずこの一週間で成すのだと、自分に宣言しているようだった。
「……危険なことですか?」
さやかがそっと問いかけると、藍紀はさやかを見返しながら答える。
「今は言えない。家族だって、どこに敵がいるかわからないから。……でも俺は、どんなことがあってもさっちゃんだけは守るから。それだけは、信じていて」
「藍紀さん……」
さやかはその言葉で、藍紀の孤独を垣間見た気がした。若頭と呼ばれ、こんな大きな屋敷に住んでいる人なのに、彼の生きる世界は過酷なのだと察しがついた。
ふいにさやかの頭に浮かんだのは父だった。やくざの家に行ったまま帰ってこないなんて、父はどれだけ心配するだろう。
さやかは目を伏せて考え込むと、迷うようにつぶやく。
「父と、引っ越す約束をしていたんです。……藍紀さんの知らないところに」
さやかが目を上げると、藍紀の瞳が揺れたのがわかった。さやかは考えながら言葉を続ける。
「それはもちろん、父を安心させるためですけど……藍紀さんのことも考えました。思い出せない私を見る藍紀さんの目は、いつもひどく哀しそうなんです。私がこのままずっと思い出せなかったら、藍紀さんはずっと傷ついたままで、だったら離れた方がいいんじゃないかって」
「俺はいいんだよ。傷ついたのはさっちゃんだ」
藍紀はくしゃりと目を歪めてつぶやく。
「……さっちゃんがずっと思い出せなくても、大事なさっちゃんのままだ。でも、もし今回の件が終わった後、さっちゃんがお父さんといることで心が癒えるなら……引っ越しても、いいよ」
「ほんとう……ですか」
藍紀は哀しく笑って、冗談とも取れない冗談を言う。
「本当は今すぐ鎖をつけて、閉じ込めたいくらい……側にいてほしいけどね」
さやかはそれを聞いて、寂しさと切なさが飛来するのを感じて何も言えなかった。
藍紀はうなずいて、改めてこれから一週間のことに話を移す。
「朝食を終えたら、家のことをよく説明しておくよ。俺たちの大事な砦だからさ」
二人で暮らす一週間。それを、二人で話し合い始めた。