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46 若頭と小鳥の客人

 季節はまだ肌寒さの残る春、世間では学期の変わる頃だった。

 さやかは藍紀の屋敷で、冬ごもりのように静かに暮らしていた。外気は体に障るからと心配性の藍紀に言われて、日がな一日部屋の中で過ごしていた。

 さやかはまだ起きては寝ての繰り返しだったけれど、藍紀は夜遅くまで仕事に奔走しているようだった。

 でも藍紀はさやかには、気にせず早く休んでねと繰り返し言っていた。

「昨日は何時に眠れた? 顔色が良くなってきたね。さっちゃんが回復していくのを見ると俺も元気になれるよ」

 藍紀はどれだけ忙しくても、朝はさやかの診察をして、一緒に朝食を取ってから出て行く。そんな藍紀の心遣いのおかげで、さやかはほとんど日常生活には差しさわりがないくらいに回復していた。

「藍紀さん、体はだいぶよくなったので、何か……私にできることはないですか?」

 その日、藍紀は久しぶりに朝食の後も屋敷にいた。さやかがおずおずと切り出すと、藍紀は微笑んでさやかを見返す。

「さっちゃんは側にいてくれるだけで何よりうれしいよ。さっちゃんの寝顔を見るだけでもよく眠れるんだ」

「でも、お仕事の手伝いは難しくても……家事をお手伝いするとか」

 藍紀は優しいまなざしでさやかをみつめて、ううん、と言葉をこぼす。

「さっちゃんに立ち仕事は、体に障るから。……でも、そうだね。一つお願いしたいことがある」

「何ですか?」

 さやかが少し身を乗り出すと、藍紀はそんなさやかを見返しながら告げる。

「今日、客が来るんだ。立場上とても重要で、こちらは弟たちと応じるつもりなんだけど、この世界は不慣れな女性なんだ。さっちゃんが同席してくれたら、少し緊張も解けるんじゃないかって」

「この世界に不慣れな女性、ですか」

 さやかはそれに親近感を覚えて、そっと藍紀に言葉を返す。

「わかりました。私が同席することで役に立つなら」

「ありがとう。助かるよ」

 藍紀は微笑んで、簡単に今日の予定を話し始めた。

 昼前には、藍紀の弟の二人が屋敷にやって来た。

「さやか、具合はどうですか?」

「はい……だいぶ良くなりました。心配をおかけして」

「そうみたいですね。やっぱり住み慣れたところで療養するのが一番ですよ」

 一人は呉葉で、さやかの顔色を見るなりほっと安堵したようだった。さやかは呉葉に再会して、たぶん自分が記憶を失う前も、彼は優しい兄だったのではないかなとおぼろげに感じていた。

「それで、あなた……が」

「銘座。お前のすぐ上の兄だ」

 もう一人の藍紀の弟は、がっしりした体躯で威圧感のある男性だった。目の下の濃いクマが恐ろしい雰囲気を出していて、聞いた通り極道らしい人だった。

 さやかは言葉に詰まりながらあいさつをする。

「今日は、よ、よろしくお願い……します」

 ……怖い。さやかは直感で、この人は苦手だと思った。きっと記憶を失う前もそうだった気がする。

 銘座というらしい彼は、どこか苦い声でぼそりとつぶやく。

「……本当に忘れたんだな」

「え……と?」

「銘座、あなたの席はこちらです。……さやか、あなたは兄さんの隣ですよ」

 さやかが戸惑っていると、呉葉が助け船を出すように言葉を挟んでくれた。さやかはぺこりと銘座に一礼すると、おずおずと藍紀の元に向かう。

 広々とした応接室で、四角のテーブルを囲んでソファーが並んでいた。庭の花々をうかがうことができる客用の席を中心に、正面が藍紀、藍紀の左隣がさやかだ。呉葉と銘座はそれぞれ客の右側の席につくことになっていた。

「……来たかな」

 藍紀がそうつぶやいたのは、予定の時刻である十時ぴったりだった。

 玄関に車が横付けされる音が聞こえて、さやかの背筋に緊張が走る。まもなくノックの音が聞こえて、使用人が外から扉を開いた。

「失礼します」

 入ってきた女性を見て、さやかは思わず心配を寄せた。それは折れそうに華奢で、憂いを帯びたまなざしをした、さやかと同い年くらいの女性だったからだった。

 藍紀が立ち上がって、如才なく女性に微笑みかける。

「ようこそ、歓迎しますよ。……珈涼かりょうさん」

 珈涼と呼ばれた少女はうなずいて、そろそろと藍紀たちを見回したのだった。

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