それから双方の協力事項がまとまった後、珈涼は帰って行った。
大まかな合意は藍紀と珈涼で結んだが、具体的な内容はナオと銘座が別室で詰めることになった。先方の実働部隊であるナオと、藍紀の腹心の銘座なら安心して任せられると、どちらの側も異論がなかった。
藍紀は珈涼を見送った後に応接室に戻ってくると、甘えるようにさやかに言った。
「さっちゃん、抱きしめていい?」
「え……」
突然の言葉にさやかが戸惑うと、呉葉が苦笑して言葉を挟む。
「ごめんなさいね、さやか。人と会ったとき、兄さんはいつもそうなんですよ」
「いつも、そう……? えと、わ、私でよければ。藍紀さん、どうぞ……?」
さやかはおずおずと藍紀を見上げる。すると藍紀は我慢していたものが溢れるように、勢いよくさやかを抱きしめた。
「わ、わぁ!」
「さっちゃん、さっちゃん……! 気持ちいい、生き返るみたいだよ」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられたさやかは、そのままの体勢で不思議そうに呉葉に視線を投げかける。
呉葉は見慣れていることのように、肩に力を入れず答える。
「兄さんは潔癖な人で、他人に触れるのをとても嫌がる人なんです。今回は大事な取引でしたから握手しましたけど、それもめったにしないことなんですよ」
さやかは初めて聞くことに目をぱちりとして、首を傾げる。
「手慣れた、スマートな所作で……相手はあんな綺麗な人で」
さやかははっとして、藍紀の腕の中にいる自分を意識する。
「……触るのが苦手だっていうなら、私は……?」
藍紀はまださやかを抱きしめたまま、愛おしそうに言葉を返す。
「さっちゃんは別。いつも、ずっと包んでいたい。朝起きたときから、夜眠るときまで」
「だ、そうですよ」
呉葉は笑って告げると、苦い調子で付け加える。
「兄さんは本当に、あなたがかわいくて仕方なくて……どうしようもないくらい、さやかだけなんですよ」
そのとき別室の扉が開いて、銘座とナオが出てきたところだった。ナオは綺麗に四十五度の礼を取る。
それで後は振り向くことなく颯爽と去っていったナオが見えなくなったところで、銘座がため息交じりに言った。
「稀に見る女傑だっていうのは本当だな。交渉も、一歩も引かなかった」
「はは。引き抜きます? あなた相手にそこまで話せるんですから、すぐに幹部でしょう」
呉葉が少し冗談交じりに言うと、銘座は真顔でうなずいた。
「何より、美人だ。次会うとき男がいるか訊いてみよう」
「……銘座」
呉葉の笑顔がひきつった。藍紀はくすくすと笑いだしていて、さやかも少しだけつられて笑った。
兄弟がいるってこんな感じなのかな。冗談を言って、それを笑って……。さやかは三人の中にいる自分を心地よく感じながら、そう思った。
それからさやかも含めて、四人で遅めの昼食を取った。
「銘座、本当にナオさんにちょっかい出すのはやめてくださいね。外交問題になりますから」
「美人にはちょっかい出すのが常識だろう」
「ふふ、銘座は猪突猛進型だからなぁ。確か高校のときも……」
恐ろしく見えていた銘座も、呉葉にたしなめられて、藍紀にからかわれていると、そんなに恐ろしく見えないのが不思議だった。
兄さんはさやかだけだと呉葉は言ったが、藍紀にはちゃんと二人の弟の兄としての顔もあって、二人との信頼関係もあるようだった。記憶がないさやかにも、それが大切なものだと理解できた。
――母を社会的に抹殺する。
ふいに客人に放った藍紀の言葉が耳に蘇って、さやかはうつむいていた。
「さっちゃん?」
隣の席で、藍紀が気づかわしげにさやかへ声をかける。
「どうしたの? 苦手なものは出してないはずだけど、お腹が痛い? 無理して全部食べなくていいんだよ」
「い、いいえ。大丈夫です」
さやかは慌ててフォークを手に取ったが、やっぱり胸の辺りが痛む。
藍紀さんは、私のためにお母様を傷つけてしまうのだろうか。それは彼にとって、つらいことなんじゃないかな……。そう思うと、石を呑み込むような気持ちになる。
青ざめているさやかを見て、藍紀は給仕に振り向く。
「さやかの分を下げろ。……さっちゃん、気分が悪いんだね。ごめんね、疲れたんだろう? 後で喉通りのいいものを持って行ってあげるから、部屋で休もうね」
「あ……」
藍紀はそう言って、さやかを抱いて立ち上がった。
呉葉や銘座がこういうことに慣れた様子で、迷惑そうな顔もしないのが、余計にさやかには申し訳なかった。
藍紀はさやかを部屋のベッドに寝かせると、ちょっと眠りなさいと頭を撫でてくれた。さやかは緊張が解けたのもあって、言われる通り少し眠ってしまった。
夕方、さやかがダイニングに降りて行くと、藍紀の部下たちと一緒に仕事をしている呉葉に会った。彼は裏方で忙しく働いていたようで、さやかは自分だけ眠っていたのが心苦しかった。
呉葉は部下たちを下がらせると、優しい目でさやかを見返してたずねる。
「さやか、眠れました? 一緒に何か食べます?」
さやかは迷った末、ぽつりと呉葉に問いかけていた。
「……私、ここにいていいんでしょうか」
呉葉はそれを聞いて眉をひそめると、そっと言葉を返す。
「どうしました?」
「今回の取引は……私のせいなんでしょう? 藍紀さん、お母様に危害を加えるって……でもそんなの、親子なのに」
「さやか」
呉葉はさやかに椅子を勧めて、自分も隣に座った。
呉葉は深くため息をついてから、言葉を切り出す。
「……そうですね。僕も、その一線は越えてほしくなかった」
「くれはさんも?」
呉葉はうなずいて、思い出すように目を細める。
「母は金と仕事が何より大事で、僕ら子どもには無関心な人でしたけど。そうでもしないと、この世界で生きてはこれなかった。……かわいそうな人だと、思います」
呉葉は一度目を伏せてから、淡々と続ける。
「けれど兄さんは強い人です。やると決めたなら、やり通すでしょう。僕や銘座や他の誰が止めても、あなたを傷つける者は何も許さない。……でも」
ふいに呉葉はさやかを見返して言う。
「兄さんの最後の良心は、あなたなんですよ。さやか」
「……私?」
「子どもの頃からずっと、片時もあなたを離さなかった。でもあなたの心が壊れるかもしれないと聞いたら、自分から側を離れた。離れている間の兄さんは見るのも辛いほど寂しそうでしたが、それでもあなたを無理に連れ戻そうとはしなかったでしょう?」
さやかはこの屋敷を訪問したときの藍紀を思い出す。あの日、一目見て藍紀はさやかが痩せたと言ったけれど……藍紀もまた、やつれて見えた。
呉葉は願うようにさやかをみつめて告げる。
「だから、さやか。あなたも兄さんを守ってあげてください」
「私が、守る……」
「兄さんが最後に心を失くさないように。それができるのはあなただけなんです」
私が、藍紀さんを守る。
じわりとさやかの中で何かが揺れ動いた。前にも、さやかはそう心に決めた気がする。
……そう、大切な人だった。ずっと、前から。
「はい……」
記憶が戻ったわけではない。でもさやかの中にはまだちゃんと思いの入れ物が残っている気がして、さやかはそっとそれを胸の上から抱きしめた。