さやかに出会う前の俺は、いなくなっても俺自身構わない、そんな最低な奴だった。
「泣いてましたよ、彼女」
「汚いから汚いって言っただけだよ。あと、泣くのもうっとうしいから二度と顔見せないでとも言った」
俺がソファーで宝石の原石を散らかして遊んでいると、向かいのソファーで呉葉がため息をついた。
俺は家にやって来た従妹がくっついてくるから、本当のことを言って振り払っただけだ。俺は体に触られるのは親でも嫌なんだと言ったはずなのに、お母様が将来藍紀兄さんと私の縁談を考えているんだと、面倒なことをぺらぺらしゃべってきた。
俺はお気に入りのアレキサンドライトを光に透かしながら、歪んだ笑みをへらっと浮かべる。
「ま、結婚してもいいけど、子どもは呉葉が作ってよ。養う金は出すから」
「え、僕がですか? 銘座にしてください」
「俺もやだよ。もっと美人がいい」
「非協力的な弟たちだなぁ。家族じゃないのかよ」
絨毯の上にいる銘座にも拒否されて、俺はソファーに突っ伏す。
クッションに埋もれながら、ジト目で呉葉を見やる。
「俺たち三兄弟って母さんの道具みたいなもんだよな。年子で産むだけ産んで使用人に世話まかせっきりだし。父さんはいろいろ手出してくるけど怖いし。俺、こんな家に生まれた時点で人生終わってるよ」
「まあまあ。兄さん、早まらないでください。僕らの人生これからなんですから。仕事だって、やってみたら楽しいかもしれないでしょう?」
「闇金が楽しいわけないだろ。俺は銘座みたいにいじめっ子じゃないし、向いてないよ」
「俺はかわいいのしかいじめないぞ」
銘座が真顔でそんなことを言うので、俺は呆れて目を逸らす。
俺は人が嫌いで、特に女が嫌いだった。幸い一緒に育ったのは男兄弟ばかりで、そのことだけは母に感謝していた。いたずらや悪口ばかり共有する呉葉と銘座は、共犯のような存在だった。
だから何気なく呉葉が言った一言も、別段心に留めることはなかった。
「そういえば、父さんが愛人を連れてくるそうですよ。別邸に囲うそうです」
ふうんと俺は気のない返事をした。父と母は完全に政略結婚で、子どもを作るだけの関係といっても嘘じゃなかった。父には元々愛人がいると聞いていたし、子どもがいようとこれから生まれようと、知ったことじゃなかった。
ほとんど他人の母と、恐ろしい父。共犯のような兄弟。将来は闇金の若頭。そんな家に生まれた俺は十二分に歪んだ子どもで、そんな自分も嫌いだった。
……さやかに出会うまでは。
ひなこさんに抱っこされて俺と対面したさやかは、マシュマロのように白くて柔らかそうだった。
「……えっ?」
父が連れてきた愛人の子ども……ということを、俺は一瞬完全に忘れてしまった。
俺は変な声を上げてまじまじとさやかを見てしまった。それくらい、さやかは思っていたのとまったく違う生き物だったからだ。
小さな小さな体に、ちょこんと乗った、やっぱり小さな頭。鼻も口も小さくて、真っ白な肌は触れたらすぐ傷がついてしまいそうに見えた。髪はちょっと癖毛なのか、綿毛のようなふわふわした髪で、甘えるように頬にからんでいた。
それで、色素の薄い少し青みがかった、宝石みたいな目がにじんで……ふぇ、とさやかは小さく声をもらした。
ひなこさんは申し訳なさそうにさやかをあやして言う。
「ごめんなさいね。さやかは人見知りで。よしよし、泣かないの」
……え、泣いてるの? こんな小さい声で?
俺は男兄弟で育ったから、声というのはもっと大きいものだと思っていた。さやかの泣き声は、すんすん、というようなか細い声だった。
側に立っている呉葉と銘座も驚いている。俺とまったく同じ気持ちかはわからないが、意外には違いなかったのだろう。
俺は食い入るようにひなこさんの腕の中の生き物をみつめながら言う。
「あの……、その。えと……抱っこしてもいいですか」
「え……いいのかしら」
自分でも、そんな提案をした自分に驚いていた。愛人の子なんて、別にどうだってよかったはずなのだから。
ひなこさんも驚いたようだったけど、俺がうなずくと、そっと俺の腕にさやかを渡してくれた。
俺がぎこちない手つきでさやかを抱き上げると、さやかはむずかゆそうに身じろぎした。俺がそろそろと目を合わせると、さやかも不思議そうな目で俺を見返す。
そのとき、まだ誰も足跡をつけていない、まっさらな雪景色を見た気分になった。
俺の心の中、そこには何も意識したものがなかったはずなのに、そこは今確かに一つの感情でいっぱいになっていた。
「……かわいい」
本当に、心の底からそう思うものが現れるとは、思ってもみなかった。
さやかはかわいくて……ずっとずっと抱っこしていたくなるような、そんなかわいい生き物だった。
「女の子なの。さっちゃんって呼んであげて」
ひなこさんの言った言葉も、耳に入っていたかどうか怪しい。
さやかが男でも女でも構わなかったからだ。それくらい、夢中でさやかをみつめていた。
「……さっちゃん」
俺がぽつりと呼ぶと、さやかは小さな小さな声で、あい、と返事をした。
そのあどけなささえ、胸がつぶれるくらいに愛おしいと感じていた。