父という人のことが、俺は子どもの頃からよくわからなかった。
父は、正妻である母とはほとんど一緒に暮らすこともなかったのに、今はどんなに仕事が忙しくともひなこさんのところで寝食を共にしていた。
本邸の管理は母に任せきりだったのに、別邸はひなこさんが暮らしやすいように、庭や調度の隅々まで手を入れて整えさせている。使用人に聞けば、父はたびたび調子を崩すひなこさんのために、仕事を休んで側についていることさえあるのだそうだ。
そんな父に、ひなこさんは……ほとんど何も、言わないのだそうだ。彼女は実家の借金で父に囲われたそうだが、それで誰を責めることもせず、ただいつも心細そうに瞳が揺れていた。
優しくて、弱い人。別邸に行けば母親より温かく迎えてくれるひなこさんのことが、俺たち三兄弟は嫌いじゃなかった。俺たちを政略の道具として扱う母を思うと、むしろ早く父と母が離婚して、ひなこさんと再婚してくれるのさえ願っていた。
「ひなこさん、今日来ないんだ」
でも、そこが父のわからないところで……父はひなこさんを俺たちの母親にするつもりは欠片もないようだった。
その日は定期的な本邸の立食会の日だった。いつも仕事で家を空けている母だが、この日ばかりは屋敷の主人として大いに客人をもてなす。母にとって、日頃屋敷に収集した絵画や彫刻を披露する機会でもあったが、俺たち三兄弟の内心は憂鬱だった。
なぜって、俺たち三兄弟こそが母にとって格好の見せ物だったからだった。千陀家に自分が産んだ息子たち、それを客人に見せつけるいい機会だった。
俺たちは、子どもが着るには窮屈さばかりが際立つハイブランドのお仕着せ姿。憮然としてつぶやいた俺に、隣の席の呉葉が愛想笑いを張り付けて小声で答える。
「僕はほっとしてます。あの権力欲の塊みたいな母さんには会わせないのが正解ですよ。銘座もそう思うでしょう?」
「うん。取って食われる」
呉葉の隣の席で無表情のままうなずいた銘座に、俺はそれもそうかと一応納得した。
けれど俺の気持ちは晴れなかった。この立食会のとき、必ずやって来る連中がいる。俺はそれから早く逃げたいのに、母が来客にあいさつするまでは俺たちは席から動けない。
案の定、まもなく騒がしい声が近づいて来た。
「藍紀にいさま! すてき、真っ白なお洋服お似合いだわ!」
「ねえ、私のドレスどう?」
「ちょっと、抜け駆けしないの。それより私は? これね、海外セレブと同じブランドなのよ」
集まってくる従妹たちから、俺はうんざりする思いで目を逸らす。
母方の従妹たちは、さすが母の血筋なのかプライドも見栄も高く、うっかり誰かに愛想笑いでもしようものなら血を見るような争いが始まる。その語気の強さも耳を覆うほどで、この世界の娘はこれくらい気が強くないとやっていられないのだろうと思いながら、その相手をする俺は気が滅入る。
その親類の女性率の高さのせいか、べたべた触って来る彼女らの遠慮のなさのせいか。どちらにせよ俺は人に触られるのが嫌いで、特に女が嫌だった。
「やめなさいよ。将来藍紀兄さまと結婚するのは……」
父のことはわからないが、ひなこさんを愛人にした父の感覚はわからないでもない。彼女らの誰かと将来結婚しなければいけないなら、俺もまちがいなく愛人を作る。
それは悪い男のすることだと思いながら、つい夢想する。
欲しいなと思う。柔くて優しくて、小鳥みたいな子。たった一人、そういう子を大事に籠の中に入れておきたい……。
そう思ったとき、使用人に手を引かれて、ちょこりと戸口から顔をのぞかせた子をみつけた。
俺はぱちりとまばたきをした。この立食会で今まで感じたことのない喜びで、みるみるうちに笑顔になった。
「さっちゃん? ……さっちゃん!」
俺は弾けるように椅子から下りると、さやかに駆け寄った。さやかは人の多さにおろおろしていて、俺をみつけるとほっとしたように手を伸ばす。
俺はさやかをぎゅっとつかまえると、抱き上げて頬を寄せる。
「うれしい。おにいちゃん家に来てくれたんだね! いっぱい案内してあげる。おいで、おにいちゃんのお膝に乗ろう?」
俺はさやかを抱っこしたまま自分の席に連れて行く。
元通りに椅子に座ったけれど、先ほどまでの暗い気持ちはもうどこにもなかった。さやかの心地いい体温にくっついていると、自然と笑顔がこぼれる。
隣の呉葉と銘座は慣れていたけど、周りの従妹たちや大人たちの反応は違っていた。
「藍紀にいさま、その子……」
「しっ。知らないの? おじさまの……」
「……じゃあなに、妹でもないの?」
俺は聞こえてきた陰のある言葉に、ぴくっと反応する。
俺は笑みを消して剣呑な目を周りに向けた。ぎゅっと守るようにさやかを抱きしめながら、この大事な重みに悪意を向ける連中をにらんだ。
ふとその中で違う目線を感じれば、上座にいた父と目が合う。父だけは感情の読めない顔で、厳かに言葉を放った。
「さやかはまだ幼い。使用人にさやかを渡せ、藍紀」
「……嫌です」
俺は初めて父に反抗する言葉を放った。物心ついたときから恐れるばかりだった父に、今は従う気持ちはなかった。
「さやかは妹です。俺が面倒を見ます。……さやかと俺を離すなら、俺も出て行きます」
子どもでも、絶対者である父に逆らうことは許されない。一瞬場が凍り付いたが、俺は父をにらんだまま動かなかった。
ただ父は大人で、俺の反抗に目を細めただけだった。
「いいだろう。同席を認める。……ただ、目を離すなよ」
父はグラスを手に取って立つと、パーティの開始を告げる。
俺はさやかの体をしっかりと包んで前を見据える。どこか今までと違う世界に足を踏み入れたような心地がしていた。