母の来客へのあいさつが終わるや否や、俺はさやかを連れてホールを抜け出していた。
「さっちゃんがうちに来てくれたらなって、ずっと思ってたんだ。さっちゃんのためにおもちゃも用意してあるから、一緒に遊ぼ?」
「おもちゃ?」
「さっちゃんはままごとが好きだって聞いたから、買ってそろえたんだ」
俺はさやかの手を引きながら、うきうきと話す。ままごとなんて呉葉や銘座も興味がなかったけれど、さやかと一緒なら別だ。楽しみで仕方がなくて、途中からはさやかを抱っこして歩いていた。
俺の部屋に入ると、俺が小さい頃に使っていたラグを敷いて、そこに小さな食器を並べた。スプーンやはしも置いて、二人で向かい合う。
「わぁ……」
さやかはそれらを、目をきらきらさせながら見ていた。お茶碗に桜の模様が入っているのが大好きみたいで、小さな手で大切そうに触れている。
「気に入った?」
「うん!」
にこっと笑ったさやかに、俺も笑顔になる。
「さっちゃん。おにいちゃんお腹すいちゃった。おにいちゃんのはどれかな?」
「ええとね、うんと……。おにいちゃんのはね……」
一生懸命考えながらお茶碗を選ぶさやかは、胸が絞られるくらいにかわいい。俺はいつまででも待てそうだったが、さやかは先ほど大事そうに触っていた桜のお茶碗を取り出す。
「それはさっちゃんのでしょう? 一番お気に入りなのは、自分で使ったらいいんだよ」
俺が慌てて断ろうとしたら、さやかはまっさらな笑顔で俺にそれを差し出した。
「いちばんだから、おにいちゃんにあげたいの。……おにいちゃん、はい!」
それを受け取ったときの俺は、ひだまりにいるみたいに幸せな心地がした。この可愛くて、きれいで、優しい子が妹だなんて、奇跡みたいな出来事だと思った。
「ありがとう、さっちゃん。……おにいちゃんも一番のもの、さっちゃんにあげるからね」
俺はこの子を大事に守ろう。この子を害するものは俺が遠ざけよう。それを心で繰り返しながら、あどけなくままごとするさやかをみつめていた。
女の子のするような遊びなんてと今まで手も触れなかったのに、さやかとするままごとは時間を忘れるくらいに楽しかった。俺はさやかと一緒ににこにこしながら、いつまでも遊んでいた。
俺はさやかを膝に乗せたとき、ふとさやかに問いかけた。
「さっちゃん、そのかばんいつも持ってるね。何が入ってるの?」
さやかは別邸にいるときも、肩から小さなかばんを下げて遊んでいることが多かった。そうしたら、さやかははにかんで答える。
「これは……さっちゃんとおかあさんのたからもの」
「たからもの?」
「さっちゃん、じ、よめないから。おおきくなったら、おかあさんによんであげるって、やくそくしてるの」
読むというなら、本か何かだろうか。俺が首を傾げたとき、部屋に母の側近が入ってきた。
「藍紀さま、お母様がお呼びです」
「あいさつの時までは席にいただろ。さやかが来ることは珍しいんだし、もう少し」
「藍紀さま」
母の側近が語気を強める。俺は苛立ったが、母を怒らせるとろくなことにならない。渋々立ち上がると、手を叩いて人を呼ぶ。
「俺が戻るまで、さやかを頼む。さやかは小さいし、人にも慣れてない。食物アレルギーも気を付けて。さやかが楽しく過ごして帰ることができるように」
使用人に言いつけると、俺はさやかをきゅっと抱きしめて、すぐ戻るよと言った。さやかはちょっと不安そうな顔をしていたけど、わがままを言わない子だから、こくんとうなずいて従った。
俺は母のところに行って、見せ物の役目を果たした。さやかと遊ぶことに比べてこの時間はどんな拷問だろうと思いながら、一刻も早くさやかのところに戻ることばかり考えていた。
子どもなりの仕事を終えて、俺が急いで部屋に戻ったとき、そこには従妹たちもいた。
……嫌な予感がした。俺はじろりと使用人をにらんだが、すぐにさやかに駆け寄ってさやかを抱き上げる。
「さっちゃん、ただいま。いい子にしててえらかったね」
「……ご、ごめな、さい……」
俺がさやかをのぞきこんで言うと、さやかは怯えた声でつぶやいた。俺は顔をしかめて、どうしたのというように首を傾げる。
「藍紀にいさま。この子、どろぼうなのよ」
従妹の一人が、あざけるように言った。俺がその不穏な言葉に振り向くと、部屋の隅に散らばったものに気づく。
はっと息を呑んで目を見張る。
「あ……」
それは俺の宝物。子どもの頃からたくさん集めて、ぴかぴかに磨いていた宝石の原石たちが、床に散らばって踏み荒らされていた。
「藍紀にいさまの宝物で遊んでたの。きれいだから欲しかったのね。こんな散らかして、ほこりもいっぱいくっついて……ひどい」
俺は部屋の隅に歩み寄って、汚れた原石たちを拾う。自分の顔から表情が抜け落ちるのがわかった。
俺はふらりと部屋の中央に戻って来ると……従妹のドレスの裾を踏みつけて言う。
「「さやかがやった」? ……そんな嘘を俺が信じると思ったか」
「に、にいさ……」
「そう呼ばれるのは不快なんだよ。俺の兄弟でもないくせに」
びりっとドレスの裾を踏んで破くと、俺は怒りで震える声で言った。
「宝石箱にはパズルの鍵をつけてある。さやかはまだ文字が読めないんだ。開けられるわけないだろう?」
「ひ……」
「さあ言え。……さやかに何て言って脅した?」
そのとき、部屋に呉葉と銘座が入って来た。呉葉が息せききって言う。
「兄さん! 従妹がさやかのかばんを持ってたんです。中を漁っていて、とっさに取り上げましたが……」
呉葉が目配せすると、銘座がかばんを持ってさやかに近づく。
「すまん。遅かったみたいだ……」
銘座が差し出したものを見て、さやかが悲鳴を上げた。
破かれた手紙のようなものを見て、さやかはひくっとしゃくりあげる。
「……おとうさんの、おてがみ……!」
それでずっと小声でしか泣かなかったさやかが壊れるように泣くのを、俺は初めて見ることになったのだった。