さやかが小さな体いっぱいに悲しみをあふれさせたのを見たとき、俺はさやかが見知らぬ家に連れてこられてまだ一か月なのだと思い当たった。
俺は家にいない母親と、別邸に住む父親という、いびつな家庭で育ったけれど、呉葉と銘座はいつも側にいた。父は離れていても俺たちから目を離さなかったし、嫌いだと言いながらどこかで母を意識して暮らしてもいた。
でも、さやかはまだ二歳なのだ。
父親から無理やり離されて、母親も……愛人と周りから蔑まれて、心細そうに暮らしていたら、どうだろう。
「……さっちゃん。ごめんね」
俺が遊びに行ったら、さやかはいつもにこにこ迎えてくれたけれど、本当は泣きたかったんじゃないだろうか。
俺はしゃくりあげるさやかを抱き上げて、顔を歪めて言う。
「悲しい、いっぱいだね。さびしいも、あったかな。……俺、さっちゃんの全部になった気でいた。俺はさっちゃんの宝物も守れなかった、子どもなのに」
腕の中のぬくもりが可愛くて、愛おしくて仕方ないのに、俺はまだそれを守る力がない。悔しくて、やるせなかった。
俺はそっとさやかの顔をのぞきこむと、さやかの目を見て言った。
「でもね、おにいちゃん、さっちゃんのこと好き。大好き。泣かないでほしいよ。……ね、手を出して」
俺はさやかを抱き上げたまま部屋の隅に歩いていくと、そこで宝石の原石を両手につかんで立ち上がる。
俺はさやかの小さな手にめいっぱい原石を乗せると、ぎこちなく笑って言う。
「おにいちゃんの宝物、さっちゃんにぜんぶあげるから。……こんな石ころ、さっちゃんの宝物の代わりにはならないかもしれないけど、でも、さっちゃんがまたにこにこしてくれたらうれしい」
見下ろしたさやかの目にはまだいっぱい涙がたまっていたけど、その目は震えながらじっと俺を見ていた。
……なんてきれいな光。きっと本物の宝石だって、こんなにみつめていたいとは思わない。
「おにいちゃんのたからもの……さわっちゃ、だめなの」
さやかはくしゅ、と涙を呑んで、たどたどしく言葉をこぼす。俺はさやかが泣き止んでくれたことがうれしくて、笑いながら言葉を返す。
「さっちゃんは、いいよ。さっちゃんだけは、いつだって触っていい。……好きだよ、さっちゃん。だって、今はさっちゃんが俺の……」
一番の宝物だもの。そうささやいて、俺はぎゅっとさやかをもう一度抱きしめた。
それから俺は呉葉と銘座に手伝ってもらって、さやかの父親のものだという破れた手紙をテープでつなぎ合わせた。それでさやかのかばんに元通りに仕舞うと、そっとさやかの肩にかばんをかけた。
「またいつでもおいで。今度は、意地悪な従妹たちが寄らないようにずっと見てるから」
俺がさやかの頭を撫でてやると、さやかはおずおずとうなずいて俺を見上げていた。
けれどそれからしばらく、俺はさやかと会えなかった。別邸に帰ったさやかは喘息の発作が出てしまって、寝付いてしまったからだ。
「さっちゃんの具合はどうですか?」
俺は毎日のように別邸に通ってそう訊ねたけれど、さやかと会うのは叶わなかった。
「ごはんもあまり食べてくれないの……。だから、ごめんなさい。今は会わせられないわ……」
それを看病しているひなこさんも、日に日に弱っているようだった。俺は心配でたまらなくて、でもひなこさんを責めるわけにもいかなくて、もどかしい思いがした。
ある日暮れ時のことだった。俺はいつものように別邸に来て、けれどさやかと会うことはできなくて、さやかの部屋の前でうつむいていた。
辺りには暗い西日が斜めに差し込んでいた。紫紺に染まった廊下で、俺はこの時間に家にいることが珍しい人の姿をみつけた。
「……父さん」
暗闇から現れた父は、向こうから俺に声をかける。
「藍紀。あまりひなこを煩わせるんじゃない。さやかの看病で疲れているんだ」
その声には焦燥がにじんでいて、父にしては感情の色が表に出ているようだった。
けれど俺もさやかが気がかりで、正常な判断ができなくなっていた。普段なら恐れて踵を返すところを、父に食いついていた。
「本当に心配なんですか?」
「なに?」
「ひなこさんとさやかをひどい生活に追い込んだのは父さんでしょう。……従妹たちみたいに、二人をいじめて楽しんでるんじゃないですか」
それは父の感情を逆なでしてもおかしくない言葉だった。実際、父はぴくりと眉を動かして、一瞬だけ俺は父の何かの感情に触れたようだった。
ただ父は大人の強さか……あるいは大人のずるさでその感情を押しとどめると、静かに口を開く。
「お前はあの手紙を読んだんだろう。身勝手でお綺麗な美辞麗句……だが、あれが愛の言葉か?」
俺が息を呑むと、父は小さく息をついて言う。
「お前もいつかわかるさ。汚くて、ずるくて、どうにも自分では抑えられない執着。……俺はそちらの方が愛の本質だと思っている」
父は俺の横を通り過ぎて屋敷の奥に……ひなこさんのいる方に歩き去る。
辺りはまもなく暗闇に覆われて、夜が訪れようとしていた。