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番外編 若頭と小鳥の出会った頃 6

 さやかが入院したのは、それからまもなくのことだった。

 今までも別邸に出入りしている医師や看護師はいたが、さやかの病状は本当に悪く、集中的に治療が必要な状態だと聞いた。

 それにほとんど父に意見を言わないひなこさんが、さやかに医療の手を尽くしてほしいと父に頼み込んだそうだ。その頃のひなこさんは心労で倒れそうで、俺も見ていてつらかった。

 父はひなこさんの懇願を聞き届けた。一族の病院にさやかを入れて、最善の医療を受けさせた。

 ただ、父はひなこさんがそこに寝泊まりすることは許さなかった。一族の病院は母の手が深く及んでいるところでもあって、ひなこさんを守る意図が大きかったのだろうと思う。

「藍紀、さやかはもう大丈夫だ。三日後に戻って来る」

「……ほんとうですか?」

 一週間が過ぎる頃、さやかの退院の日取りが決まったと父に聞いた。俺は弾けるように顔を上げて、泣きそうな顔で言う。

「俺、迎えに行っていいですか?」

「ひなこが迎えに行きたいのだと。お前はこちらの屋敷で待つといい」

「はい。それなら、わかりました」

 俺はこくんとうなずいて、父に従うことにした。

 さやかが帰って来たらいっぱい頭をなでて、がんばったねと褒めてあげるんだ。俺は家に帰るとカレンダーを見上げて、さやかの退院日のところに大きく丸をつけた。

 俺はさやかが退院する日まで、毎日そわそわして過ごした。思い浮かぶのはさやかのことばかりだった。小さなさやかが、ますます痩せてしまっていたら? ……もしかして離れていた時間が長くて、俺のことさえ忘れてしまっていたら? 不安は尽きなかったが、さやかを早く抱きしめたい思いでいっぱいだった。

 さやかが退院して別邸に帰って来るのは、土曜日の昼過ぎだと聞いた。だから俺は別邸に来る前に本屋に寄って、さやかが好きな絵本のシリーズを買うことにした。

「にこにこくまさん……だったっけ」

 ページを開くたび、笑顔のくまが出てくるのを喜んでいたさやか。俺にとってはそれを見てにこにこしてくれるさやかが何よりかわいくて、 絵本を大事に袋に包むと、俺も頬を緩ませて別邸に向かった。

 別邸に着いたとき、意外にも玄関近くで父と会った。俺がきょとんとしていると、父はいぶかしげに俺に問う。

「藍紀、一人で来たのか?」

「一人……?」

 子どもの頃から俺たち三兄弟には護衛兼監視役がいたから、たとえ近くに姿は見えなくとも子ども一人ではない。当然護衛をつけた父なら知っていることなのに、変だと思ったのだ。

「ひなこは、さやかとお前とを連れて、食事をして帰って来ると……」

 でも父が意図したのは、俺が思っていたのとは違ったらしい。父は話しながら携帯電話を取り出して、すぐにひなこさんに電話をかけたようだった。

 ツー……と、携帯電話は電波が届かない電子音を鳴らして、父を拒絶する。一瞬の沈黙が、父と俺の間に流れた。

「……逃げたか。無駄なことを」

 父は恐ろしい目をして低くつぶやくと、近づいて来た側近に指示を出す。

「ひなこを確保しろ。一時間以内だ。……さやかを連れてそう遠くには行けない」

 それから父はつと俺を見て言った。

「藍紀、さやかに会いたいか?」

「はい。……さやか、帰ってくるんですよね?」

 俺が直感のままにうなずいて問い返すと、父も当然のようにうなずく。

「さやかは必要だ。俺にとってもな」

 それから父は配下を大がかりに使って、ひなこさんを探させたらしい。ひなこさんの情報が入ったのは、それから確かに一時間もかからなかった。

 父は車を玄関につけさせると、振り向いて俺に言う。

「家で待っていてもいいぞ。……見たくないものを、見るかもしれない」

「俺も行きます。連れて行ってください」

 俺は一刻も早くさやかに会いたくて、父に頼み込んでいた。

 父は俺を見て目を細めると、いいだろうと言って、俺を先に乗せた。

 父と俺を乗せた車は首都高に乗って一時間ほど走り、郊外に下りた。山間の田園風景の中に点々と家々が広がっていて、俺には見慣れなかった。

 その駅前に小さなホテルがあって、父の配下らしい者たちが受付と話をしていた。

 配下の男たちは父をみとめると綺麗に礼をして道を開く。父は短く問いかけた。

「マスターキーは?」

「こちらです」

 配下の男から受け取った鍵を持って、父はエレベーターに乗る。俺も後に続いた。

 まもなく目的の部屋の前に着いて、父はマスターキーで扉を開いた。

 中は狭い、粗末な一室だった。その小さな椅子で、ひなこさんは憔悴した様子でさやかを抱いて座り込んでいた。

「ひなこ」

 たぶん受付の騒ぎは聞こえていたのだろう。ひなこさんの目は絶望に沈んでいて、最初父の呼びかけにも応じなかった。

 けれど次の瞬間、父はひなこさんを、さやかごと抱き上げていた。

「ひなこ。……心配したんだぞ」

 俺はその父の行為にも、その言葉の優しさにも驚いていた。

「看病に疲れ切った体で、お前まで倒れたらどうするんだ。さやかを連れ帰ったら、しばらくゆっくり休養するという約束だっただろう?」

 愛人に逃げられるという不名誉な出来事に、もしかしたら父はひなこさんを怒鳴り、あるいは手を上げるかもしれないとさえ思っていた。

 けれど父はそんな自尊心はどうでもいいようだった。代わりに父は真綿で包むように、優しい声音で残酷なことを言う。

「だめだろう? ひなこ。……次逃げたら今後はさやかに会わせないが、どうする?」

「や……それだけは、いや……」

 ひなこさんは顔を上げて、泣きそうな目で首を横に振る。父は微笑んでうなずいた。

「それなら籠にお入り、ひなこ。誰より大切にするから。お前が嫌がるくらいに愛おしむから。俺はお前がいないと、気が狂いそうなんだ……」

 そう言って、父はひなこさんの頭に口づけた。

 俺にとって、父は厳しく自律的な人だった。けれど俺は、そんな父が一種破滅的な愛をささやく姿を初めて目にした。

 ただその父とひなこさんの姿に、微かな憧れを持ったのも事実だった。自分もそんな風に、たった一人を籠に入れるように大切にしてみたいと思ったから。

 それに、父はひなこさんを軽々と抱き上げるだけでなく、さやかまでその大きな腕で包んでいた。

 さやかは病み上がりのとろりとした目で、助けを求めるように父を呼ぶ。

「おとうさん……?」

 退院したばかりのさやかは、やっぱり痩せて小さくなっていた。今のさやかには、父こそが庇護者なのだと見せつけられた。

 さっちゃん。そのとき俺は少し離れたところから、心でさやかに話しかけた。

 小鳥みたいな、柔くて愛し君。

 いつか俺が大きくなって、君を守るだけの力を手に入れたなら。

 ……そのときは目の前の父より、君を愛おしむ若頭になる。そう胸に誓った。

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