お兄ちゃん……お兄ちゃんと、優しい声が俺を呼んでいる。
「起きて、お兄ちゃん。……疲れてるのかな? でもそろそろくれはが来ちゃうし、どうしよう……」
俺の一番可愛い子の声だ。柔い、聞き心地のいい声は、どこにいたって聞き間違えるはずもない。
でも今は少し困っているようだ。その理由が俺にあるのだとしたら、このたゆたうような気分から覚めなければと思う。
「……さっちゃん?」
俺が目を開けば、ベッドサイドから心配そうに俺を見下ろすさやかの姿があった。
今年大学生になるさやかは、今も小柄で華奢だ。でもいろんなものを取り寄せて食べさせたから、顔色はすっかりよくなった。
少し青みがかった澄んだ目と、白くて柔らかい肌。俺の体と全然違うのは、そこに入っている魂も透明で、優しいからなのだろうと思う。
……相変わらずかわいいなぁ。胸いっぱいに温かな気持ちが満ちて、俺は笑顔になっていた。
「さっちゃん!」
「お、おにいちゃん?」
俺が腕を伸ばしてさやかを抱き寄せたら、勢い余ってさやかは俺の上に倒れ込んだ。とっさに起き上がろうとしたさやかを、離さないとばかりにそのまま抱きしめる。
さやかの髪をなでて、頬を寄せる。俺とさやかなら珍しくはないことだけど、世間でいう兄妹のスキンシップでないことは、そろそろ承知している。
でもそうしているのが心地よくて、俺が笑っていると、さやかも笑い返して言った。
「どうしたの、お兄ちゃん。いいことがあった?」
「ちょっと横になった間、さっちゃんの夢を見てたんだ。さっちゃんと出会ったばかりの頃」
俺はたった今までまぶたの裏に広がっていた光景を思う。
「さっちゃんは小さい頃から、かわいくて、かわいくて……家に持って帰って仕舞っておきたいくらい、かわいくてさ。実際、何度も別邸から連れていこうとしたんだけど、父さんに邪魔されて。父さんへの恨みは、今も半分以上さっちゃんのことだ」
「う、うん」
「さっちゃんとままごとをしたときも、さっちゃんに絵本を読んであげたときも、さっちゃんはにこにこしてくれて。眠ってるときもやっぱりかわいくて、いつまでも寝顔を見てて、人目を盗んではキスして」
そこまで話してから、俺はふと苦い思いがこみあげる。
「……でもさっちゃんはその頃、幸せだったのかなって思うこともある。お父さんと引き離されて、ひなこさんも塞ぎがちだったし。さっちゃん自身もよく病気をして、つらそうで……俺は力がなくて、何もしてやれなかった」
「そんなことないよ」
ふいにさやかは俺の手に触れて、柔く微笑む。
「私、にこにこしてたんでしょう? そんな小さい頃に作り笑いなんてできないよ。 ……私は幸せだったよ。小さい頃のことたくさんは覚えてないけど、お兄ちゃんからいっぱいいっぱい、愛されてたのは覚えてる」
さやかは自分より二回りほども大きな俺の手に、そろそろと指を重ねて言う。
「お兄ちゃんは私のこと、かわいいって言うけど……私はいつもお兄ちゃんを憧れの気持ちで見上げてた。お兄ちゃんは、私が弱るたびに抱っこして、大丈夫だよと励ましてくれた。お兄ちゃんからもらったものは、今も……あ、あのね」
さやかは俺の腕から身を起こすと、わたわたと慌てる。
「そうだった。荷ほどきの真っ最中だったの。もうすぐくれはが来るから、それまでに片付けておかないと」
俺は現在の自分を思い返して、さやかの言葉を理解する。
父とひなこさんは結婚したのを機に本邸に移る。それで俺は別邸を父から譲り受けて……今日からここで、さやかと二人で暮らすのだ。
不安もある。俺の側にいると、さやかは家業の影を見ることになるかもしれない。父はさやかとひなこさんがいた別邸には一切仕事を持ち込まなかったが、父は今回を期に、家業が闇金融であることは話してしまった。さやかには今後も家業には触れさせないつもりだけど、その優しい心を怯えさせてしまったらどうしようとも思う。
でも……と、俺はベッドから立ち上がって、さやかの頭をぽんと叩いた。
「後片付けは落ち着いてからで大丈夫。俺とさっちゃんのペースでゆっくりやろう? ここは俺とさっちゃんの家なんだからさ」
さやかと暮らすのが俺の夢だった。いつもさやかを見ていられるところに住んで、さやかの呼吸と温度を感じられるところで眠りたいと思っていた。
さやかの頬に手を触れて、じわりと心に広がる感情を思う。
さやかを見下ろす俺の目は、いつからか少し危ういとは気づいているけれど。
「お兄ちゃん?」
「……なんでもない」
俺は苦笑して、そっとさやかの頬から手を離す。
「お兄ちゃん」じゃない俺は、まだしばらくさやかに見せるつもりはない。さやかが俺に預けてくれる無心の安息を、裏切りたくはないから。
さやかは無邪気な笑顔で、俺の袖を引いて言う。
「そうだね。お兄ちゃんと、これからはずっと一緒にいられるんだものね」
ずっと一緒。その言葉に、柄でもなく舞い上がる自分がいる。
さやかはそんな俺の内心には気づいていないのか、俺と並んで階下に向かいながら言う。
「くれはにどんなお茶を出そうかな。桜のお茶なんてどう? 季節もので、いい茶葉があるから」
「いいんじゃないかな。さっちゃんの選ぶお茶はいつもおいしいよ」
俺はさやかと一緒に歩きながら、離れてしまった手を惜しむように目を細める。
「さっちゃん。……うちに来てくれてありがとうね」
……出会った頃から、君は俺にとって特別な子で。君と出会う前の自分など要らないと思うほど、俺は君にすべてを救われてる。
さやかは今日ここに来たことを言われたと思ったらしい。はにかんでうなずく。
「うん。……永くお世話になります、お兄ちゃん」
まるで結婚するみたいだなと思いながら、俺も照れくさくなる。
いつかさやかと結婚したいと思っていることは、まだ俺の心の中の箱に鍵をかけて。
俺はまたさやかの手をつかまえると、呉葉を迎えるためにダイニングに向かった。