気づけば沼のような世界へ落ちている、それがこの世界だ。
「若頭、いいおもちゃをみつけたんです。ひまつぶしにいかがですか」
闇金融を家業にしていると、いろんな客もいろんな部下も目にする。幸いといえるのかはわからないが、二十代の半ばで既にそれなりに悪行に手を染めていて、それなりに遊びも経験していた。
ただ俺は自分が芯からの悪人ではないと信じていた。その頃でも少なくとも、愛情を注ぐものは持っていた。
俺は障りのある遊びを口にした部下に一瞥をくれて言う。
「俺を金儲けの手段にしか見ない妻はどちらでもいい。……が、俺でも息子たちは可愛い。あいつらが無事に大きくなるまでは、女は要らん」
俺はそれだけ告げると、次の仕事はと別の部下に目を向けた。
会社の経営と、組の生業と、有象無象の厄介事。それらに判断を下しているうちに、一人の部下が足早に近づいて来るのが見えた。
俺は目の端でそれをみつけて、来いと目配せする。厄介事と言うならこの部下の持ち寄る相談がその頃の俺にとって一番問題で、関心事でもあった。
その部下は困り顔で、俺に耳打ちする。
「藍紀様が……」
またかと思いながら、俺は席を立つ。
オフィスを通り抜けて目的の個室に入れば、そこには可愛げがないのが可愛い、そんな矛盾した存在が足を投げ出して座り込んでいた。
「藍紀、また世話係を追い出したのか。何度目だ」
多少の苛つきと怒りが声に混じったのは仕方ないだろう。一番上の息子、藍紀は俺がつけた世話係をことごとく拒絶する。
藍紀は俺の怒声にびくりとしたものの、無表情はそのままに、ぷいと顔を背けた。
俺はそんな藍紀を抱き上げながらため息をつく。
早くから人に囲まれている生活が合わなかったのか、それとも母親の愛情をまったく受けられなかったせいなのか。五歳になる藍紀は人嫌いで、特に女が嫌いだった。
それだけならまだいいとしても、ほとんど表情がなく、泣きもしないのが気がかりだった。気が弱いと片付けるには、強情なところがありすぎるようにも思えた。
俺はどうにか怒りを鎮めると、藍紀を引き寄せて言う。
「藍紀? 父さんはわかってる。お前は少し人より潔癖で……お前のご機嫌を取ろうとする連中が汚く見えるんだな」
藍紀は答えなかったが、口を引き結んだままこくんと喉を鳴らす。
俺は藍紀を自分の目線のところまで持ち上げると、その閉ざされた心の奥に届くように言葉を告げる。
「藍紀、わかるか。父さんはお前を愛しているよ。家業のために子どもが必要という理由だけじゃない。お前が可愛いし、無事に育てるためならどんなこともする」
「……じゃあ」
そこで藍紀は今日初めて口を開いた。
「せわがかり、いらない。くれはとめいざがいればいい」
俺は妻との結婚の条件に、子どもが三人欲しいと言った。男でも女でも構わないから、生まれたときから味方になれる存在を身近に作ってやりたいと。それを見事叶えたことだけは、妻に感謝している。
俺はうなずいて藍紀に言い聞かせる。
「ああ。弟たちを大事にするのはえらいな。だが、教育はお前のために必要なんだ」
「だって、きたない……!」
藍紀は体をぎゅっと固くして、うめくようにつぶやいた。
教育を受けるだけで、触る必要はないのだと教えても、藍紀は人を汚いと言って寄せ付けない。呉葉や銘座でさえ触れるのは嫌がって……唯一、俺だけが藍紀を抱き上げることができた。
だが俺は確実に藍紀より先に年を取るし、いつまでも誰にも触ることができないままでは生活に支障が出る。
「藍紀……」
俺にとって今一番の悩みは、会社の経営でも組の仕事でもなく、藍紀の未来だった。
結局、藍紀を帰りの車に乗せて仕事に戻った頃にはとっぷりと夜も更けていた。どうにか息子たちが起きているうちに帰りたいと思いながら、仕事に戻る。
思い返せばその頃、上手くいかない毎日ではあったが、決して悪くはない日常の中にいた。妻とは別居状態だが息子たちのことは愛していたし、仕事もそれなりに充実していた。女は要らないと部下に告げた言葉も本心だった。
「若頭、他愛ない仕事があるんです。気晴らしにいかがですか」
今日どこかで聞いたような言葉が、違う言葉で聞こえたのはそんなときだった。
俺はデスクで顔を上げると、悪友に見せるような苦笑で言う。
「一樹。なんだ、組とは縁を切ったんじゃなかったのか」
「切りましたよ。無事職も得ましたし、実家から離れて暮らしています」
「ああ、聞いている」
華陀一樹は親類だが、少し変わった奴で、大人になってからは実家の華陀家から距離を置いていた。天文学を学び、育った大学の助教授になったと聞いた。
一樹は、子どもの頃は仲がよかった。成長してからは疎遠になったが、藍紀に顔立ちがよく似ているからか、弟のように感じていた。
一樹は柔く笑いながら、俺に言う。
「若頭に、ちょっとお願いしたいことがあってきました」
これが一樹でなければ、金を貸してほしいという頼みかと嗤っただろう。
「ある女性がお金を借りるのを、止めてほしいんです。僕の友人の婚約者で……ひなこさんと言うのですけど」
それが、最後の日。
俺が今まで信じていた、幸せや愛情というもの。それらすべてが藻屑と消える。
……そんな沼のような世界に立ち入る前日のことだった。