空が濃紺に染まる頃、俺は一樹に誘われてある夜会に顔を出した。
そこは組関係の会合とは違って、行儀が良く血筋のいい子弟が出入りする社交の場だ。ただ、それを主催しているのは表と裏両方の顔を持つ金融業の若頭で、俺とは敵対もしていなければ馴れ合いもない、同業者だった。
俺は一樹の友人として、千陀組の名は出さずにその夜会に入り込んだ。そこは地下ホールの中を足元の照明だけが照らしていて、どこか不穏なクラブ音楽の流れる空間だった。
「……久しぶりに来てはみたが」
俺はボーイからカクテルを受け取って、隣の一樹に冷笑する。
「末松組の若頭は、金を借りるにはいい相手だ。止める理由がない」
一樹の友人の婚約者、ひなこは、この夜会の主催者である末松組の若頭に金を借りようとしているのだと言う。
末松組の若頭は四十ほどで、虚栄心が高く女好きなだけの小物だが、悪徳というほどでもない。
「金利は高いかもしれんが、返せないほどではないだろう」
「若頭が持ち出した対価は利子ではないそうです。……ひなこさんは、美人ですから」
俺の言葉に、一樹は苦い口調で返した。そういうことかと、俺は呆れの目で空を見やる。
「どちらへ?」
「一服」
俺は面倒さを隠さずに、一樹に言い捨てる。
「ますます止める理由がなくなった。どちらにも利のある話だ。……適当に時間を潰して帰る」
そう言って、俺は地下ホールを出て行った。
二階の非常階段に出て煙草を吸う。階下に見える海辺のテラスでも、今夜は夜会で人があふれていた。酒と音楽と、遊興への誘い。
いずれもつまらないとしか思えなかった。俺は酒も音楽もそれほど好きじゃない。人並みに女遊びも経験したが、さしたる執着もなく結婚に至った。仕事には子どもが必要で、そして生まれてきた子どもたちには意外にも結構な愛情を感じていて、その成長を見ることができるのなら十分だった。
……色恋など、遠い街の夜景のように、自分には縁がないと思っていた。
こん、と掠れるような咳が聞こえたのはそのときだった。
俺が振り向くと、非常階段の陰で顔を伏せて咳をする女を見かけた。けほけほと、か細い咳を繰り返しているところを見ると、体が弱いのかもしれなかった。
俺は自分の手元の煙が風でそちらに流れているのに気づいて、とっさに煙草の火を消す。
「すまん、大丈夫か」
俺の言葉に女は顔を上げて……柔く弱く笑う。
自分の呼吸が止まったのがわかった。周りの喧噪がすべてかき消えたような、そんな瞬間だった。
「ありがとう……」
その細い声も、血管が透けそうなほど白い肌も、夢見るような澄んだ瞳も、こんな儚い生き物を俺は見たことがなかった。
「もう大丈夫です」
黒髪をアップにして、水色のワンピースをまとった華奢な女は、あどけないほど柔らかく微笑んだ。
……さやかな色香に、知らず喉が鳴っていた。
少年だと言われても俺は信じたかもしれなかった。その清さは一種の毒より罪深く思えた。
「一人で来たのか」
俺の問いかけに、彼女はううん、と首を横に振った。
……恋人がいるのか。苛立つように追及しそうになったのを、俺はすんでのところで止める。
「名前は……」
訊きたいことは山ほどあるのに、そんな平凡なことをたずねたときだった。
「ひなこさん。若頭が探していたよ」
非常階段の下から、一樹が上って来て言った。
一樹のその言葉を聞くと、彼女……ひなこは、表情を硬くしてうなずく。
「はい……今行きます」
俺は静かに階段を降りて行くひなこと、今夜その先に起こる出来事を思う。
金を貸す同業者に、身を差し出す女。ありふれたその関係に、俺は何の興味もないはずだった。
「……ひなこ」
だが俺には、それを止める理由が出来てしまった。
とても単純な理由。欲に目がくらんだ、ただそれだけのことで。
ひなこは不思議そうに俺を振り向いた。俺は階段の上から、それをみつめ返す。
ひなこと、もう一度彼女を呼ぶ。この先何度も呼ぶその名前は、甘い毒のように俺の中に染みわたっていく。
「困っているんだろう? 知っているよ」
俺は自分がこんな声が出せたとは今まで知らなかった、そんな優しい声で言う。
それで自分にこんな表情があったとは知らずにいた、悪魔のような微笑でささやく。
「末松組の若頭よりいい条件で、俺が金を貸してやろう。……その代わりに」
俺は天国か、あるいは沼のような奈落に踏み込む心地で、階段をゆっくりと下って行った。