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番外編 若頭と小鳥の過去と現在 3

 ひなこが首を横に振ったときも、それは小動物が儚く後ずさりをしたようにしか見えなかった。

 俺はその儚い生き物に、状況を認めさせるように優しくたずねる。

「断るには、追い詰められているように見受けられるが?」

 俺と一樹、それとひなこは、元の地下ホールに戻って来ていた。隅のカウンターで立ったまま、俺は短くひなこから身の上を聞いたところだった。

「借金は、お兄様が家のためにしてくれたことだとわかっています……」

 ひなこは俺も聞き及んでいる良家の娘で、実家の事業は長い間赤字続きだった。けれど一番の問題は、新しく実家の事業を継いだひなこの従兄が、その状況にしびれを切らして闇金に手を出したことだった。

「お兄様?」

「ごめんなさい。婚約者は幼馴染で、ずっとそう呼んでいたものですから」

 俺が問い返すと、ひなこは柔く笑って答える。

「彼は……卯月さんは、とても優しい方なんです。まだ事業にも慣れていなくて……騙されてしまったのも、無理はありません」

 それを聞いたときの俺は、ちりっとした苛立ちを感じた。ひなこの婚約者というのは、つまりは世間知らずの無能者だということ。ひなこが身を売ろうとするくらいに実家の事業とひなこを追い詰めた、そんな男だとわかったから。

 俺はちらと一樹を見て、ひなこに目を戻す。

「それならなおさら、俺の申し出を受けるといい。一樹の手前、良心的な貸付を約束する。……ただ数日、俺の別邸に滞在してほしいと言っているだけだろう?」

 もちろん俺の膝元まで来たのなら、ただで帰すつもりはないが。俺が暗い欲求を底に収めてたずねると、ひなこはやはり首を横に振った。

 俺がなぜという目でひなこを見ると、彼女は儚く弱い目で答えを拒絶する。

 俺はそのとき、ひなこが俺を恐れているのを理解した。俺が熾火のような情念を抱いているのを、彼女は気づいている。

 おそらく彼女の柔い色香に魅せられた男たちは、今までにも大勢いたのだろう。それから身を守るために男たちを恐れるのは、聡い選択だ。

「そうか。……残念だ」

 けれど、ひなこ。お前は基本的なことを誤解している。

 ……お前が今向き合っているのは、裏社会の男だということ。

「末松組の若頭は、今日はここに来ないよ」

 俺が何気なく言うと、ひなこの瞳が怯えたように揺れた。

 今度はひなこが、どうしてと問うような目で俺を見る。俺は薄く笑って答えた。

「明日も、明後日も、来ない。今頃シマで起こっているトラブルで忙殺されて、クラブに来るような暇はない。……どうした、震えているのか」

 ひなこは何かに気づいたように、さっと青ざめてうつむいた。俺はカクテルをテーブルに置くと、ひなこに歩み寄ってその顔を覗き込む。

「怖がらなくていい。そんなことはよくあることだ。心配しなくても、他に借りる先はいくらっでもある。……ただ、そのたびトラブルが起きるだけだ」

「あ、あなた、は……」

 俺は喉の奥で笑って、ひなこのすぐ側に立った。

「……凌紀りょうき。千陀凌紀。妻にさえ若頭と呼ばれるが、お前なら名前を呼んでもいいよ?」

 軽くひなこの頬に手を触れて、俺は身を屈めて言い聞かせる。

「気づいているだろう? お前に惹かれてる。お前が可愛い。大切に大切に、真綿で包むように守ってやるから……だから俺以外の男に頼るなんて、やめような?」

 ひなこはもう立っているのも覚束ないくらいに蒼白の顔色だった。それさえ食べてしまいたいくらいに可愛くて、目を細めてひなこをみつめる。

「ひなこ、もう一度訊く。……俺から金を借りるだろう?」

 その夜、俺は今までの自分を手放してしまったように思う。

 煮詰めたキャラメルを呑み込んだように、血の中を濃密な感情が巡るようになった。それを愛情と呼ぶのか、狂執と呼ぶのかは、どちらでもよかった。

 そうして俺はあっけなく、金でひなこを買った。

 ……けれどひなこの愛を得るには長い月日が必要だということを、このときの俺はまだ知らなかった。

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