ひなこはスズランに似た匂いがする。
そう気づいたのは、ひなこの髪に顔を埋めて横たわったときのことだった。
「ひなこ。……かわいい抵抗だったな。じゃれているのかと思ったよ」
自分がこれほど欲求に正直な人間だとは知らなかった。ひなこが別邸にやって来たその日のうちに、俺はひなこを抱いたのだった。
まだ午後の陽光がこぼれる時間帯、カーテンが風に揺れていた。テーブルの上には飲みかけのティーカップが倒れていて、テーブルクロスに染みを作っていた。
事を急いだ自覚はある。買い物に連れて行ったり、食事をしたりして、恋人のように段階を踏んでもよかった。
「悪いな。お前の初めてのようなキスがかわいくて、我慢ができなかったんだ」
……いや、俺は時間が巻き戻っても待つという選択はしなかった。
キスをしたら今日は帰してやってもいい。そう俺が言ったら、ひなこは小鳥が触れるようなキスをしてきた。それが、きっかけ。
それから触れていったひなこの体は、どこも柔く甘かった。あちこちに跡をつけて、その味を確かめた。初めて女を抱くように興奮して、行為が終わった後もその小さな体を腕の中に封じ込めている。
「それとも、キスも初めてだったか?」
体に染みわたるような満足感には理由がある。ひなこは……初めて、だったから。
「かわいいな、お前は。……どうしてこんなかわいい生き物を知らずに来たんだろう。もっと早くみつけていたら、誰にも見せずに育てたのに」
自分の想像がねじ曲がっていくのさえ、どこか心地いい。
スズランには毒があるらしい。ふとそれを思い返して、そうだろうなと納得する。
たぶんひなこに出会ったときから、俺はおかしくなったのだろう。あの夜会の日から、脳が溶けてしまいそうなほどひなこのことばかり考えている。
毛づくろいをするように長いこと、ひなこの髪を梳いていた。身じろぎも許さないほど腕の中につかまえていたから、ひなこの泣く声も体を通して直に聞こえた。
ひなこは俺の胸の辺りで、弱い抵抗の声を上げる。
「もう帰して……気は、済んだでしょう?」
俺はひなこから見えないところで、暗い微笑を浮かべる。
俺のこれは、火遊びだと思っているのだ。俺には妻も子もいるから、そう思うのは当然かもしれない。
ひなこの思う通りだったなら、湖に一時走った波紋のように、やがては時の流れに飲まれて消える。
俺はテーブルクロスに広がった染みを見て目を細める。こぼれた水は元には戻らない、そんな言葉が思い浮かぶ。
……かわいそうに、ひなこ。お前の思った通りだったらよかったな。
俺自身もこれから起こることに罪悪感を感じるくらい……お前の希望は、叶わない。
「や……!」
俺はひなこの体を下にして、またその体と自らをつなげた。
一昼夜、ひなこと離れず過ごして。食事を取って、また一昼夜。
三日が過ぎる頃にひなこは熱を出して、ようやく体を離した。
甲斐甲斐しくひなこの食事の世話から何から何まで世話して、さらに一週間。その頃ようやくひなこは何かがおかしいと気づいたようだった。
「いつ、帰してくれる……?」
俺は優しくひなこの頬に触れて、微笑みかける。
「帰りたいか?」
「それは……当然でしょう? 私には、婚約者がいて」
俺は、はは、と楽しそうに笑ってみせる。ひなこはそんな俺に、焦燥感に駆られた声で言った。
「どうして笑うの? まさか」
青ざめたひなこに、俺は首を横に振る。
「何もしていないよ。……俺はね」
俺は低めた声で付け加えると、ひなこの顔をのぞきこんで言う。
「近いうちに実家には帰すよ。別邸を整えたいんでね。何だったら婚約者に会ってくるといい」
にこやかな俺に、ひなこは恐れるような目を向けていた。
そうだよ、会っておいで。……現実を、知ってくるといい。純真で柔いお前には、つらい現実かもしれないが。
「お前は自分から俺のところに戻って来るよ。……そうしたらここから、出たくなくなるだろう」
俺はひなこの頭にそっと口づけて、言葉を切った。