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第10話

 団は、ビニール袋を片手に歩いていた。中には牛乳とサンドイッチ。公園のベンチで小腹を満たしてから、ホワイトの基地へ向かうつもりだった。団にとっては何でもない日常の一コマ。

 ふと、団の視界の端に、周囲の景観からわずかに浮き立つような人影が映った。自然に団の足が止まる。

 黒いコートを羽織った男が一人、道端に立ち、所在なげに周囲を見回している。背は高く、黒々とした艶のある髪をオールバックに整えた、四十代くらいに見える穏やかな雰囲気の男だった。

「おじさん、どうかした?」

 困っているように見えたその男に、団は迷いもなく声をかける。

「……道に迷ってしまってね。駅までは、どちらだろう?」

 静かで、落ち着いた声だった。威圧感はまるでなく、どこか柔らかな響きがある。

「駅ならすぐそこですよ。この道をまっすぐ行って、大きな交差点を右に曲がったところです。俺もそっち方面に向かうところだから、一緒に行きます?」

 団は駅までの道のりを説明しながら、自然に同行を提案した。相手が明らかに困っている様子だったし、駅までの道順を教えるだけならたいした手間ではない。

 男は団の言葉を聞くと、目を細め、穏やかに微笑んだ。

「それは助かるな、ありがとう。……親切だね、君は」

「そうかな? まあ、困ってる人を放っておけないだけですよ」

 団はにかっと笑った。特別なことをしているつもりはなかった。ごく当たり前のことをしたまでだ。

 二人は並んで歩き出す。団の軽い足音と、男の落ち着いた足音がアスファルトに響く。会話はそれきりで妙に空気が静かだったが、不思議と気まずさはなかった。ただ隣を歩いているだけなのに、どこか心地よい沈黙。

 しかし、次の瞬間、その静けさが打ち砕かれた。

「きゃああああッ!」

 遠く、交差点の向こうから女性の悲鳴が響き渡った。続けて、金属が激しく打ち鳴らされるような、耳障りな音が重なる。団のポケットに忍ばせていたタブレットが、けたたましい警報を鳴らし始めた。緊急事態を示す警告音。

 異能犯罪だ。

「ごめん、おじさん、ちょっと待ってて!」

 団はすぐさまそう言い残すと、袋を電柱の影に置き、走り出した。靴音がアスファルトに響く。

 男は、その背中をじっと見送っていた。その穏やかな顔立ちに、感情の動きは一切見て取れない。ただ静かに、団が走り去った方角を見つめているだけだった。


 現場は混乱していた。

 ひっくり返った車、割れた窓ガラス、通行人が恐怖に顔を歪め、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っている。

 その中心で、見るからに常軌を逸した様子の男が暴れ回り、無差別に破壊を繰り返している。両腕を鋼のように硬化した巨大な刃へと変化させているが、男の異能だろう。

「やめろ!」

 団は叫び、瓦礫と化した車の隙間を縫うようにして現場の中心へと飛び込んだ。

「ァァァアッ、そんな目でッ俺を見るなァ!」

 異能者の男は錯乱しているのか、血走った目でぎょろぎょろと周囲を見渡しており、団の姿を捉えるとさらに興奮したように奇声を上げる。

 ぶんぶんと振り回される鋼鉄の腕。その動きは速く、そして重い。団は怯まず相手の懐に飛び込んでいく。右京や他の隊員が居ない今、異能者との距離を詰めることが団にとって最も有効な戦術だった。

「やめろって言ってるだろ!」

「うるさいァァァうるさいなァもううるさいんだよッ」

 男はさらに激昂し、嵐のような連撃を浴びせてくる。金属が空を切り裂く耳障りな音。団は紙一重でそれをかわし続けながら、必死に間合いを詰める。

 男の力は凄まじく、動きに一切のパターンがない。ただ破壊衝動に任せて暴れているだけだ。なかなか踏み込めずにいたが、鋭く振り下ろされた右腕の刃が団の頬をかすめた。

 皮膚が裂け、灼けるような痛みが走る。鮮血が夕陽に照らされ、きらめきながら宙に散った。

 頬を押さえそうになる衝動を理性で抑え込み、なんとか向き直る。

 団は呼吸を整え、相手の隙を探す。しかし、隙らしい隙が見当たらない。このままではジリ貧だ。どうすれば、この凶刃を止められる? 応援が来るまで時間を稼ぐか?

 頭の中で様々な可能性が駆け巡る。しかし、駅までの道案内をする約束をした男を待たせているのだと思い出し、悠長にしている時間はないと頭を切り替えた。

 やるしかない。団は男の動きを注視した。無軌道に見えるが、僅かに体の軸がブレる瞬間、視線が別のものに逸れる瞬間がある。動きそのものは単調だ。狂気に駆られているためか、洗練された動きではない。避けることはできる。

 団は一瞬、男の視線が、瓦礫のそばで震える人影に逸れたのを見逃さなかった。その刹那、異能者の男が再び奇声を上げ、両腕を大きく振りかぶる。

「危ない!」

 団は全力でそちらへ駆け出した。異能者の腕が振り下ろされるよりも速く、通行人を突き飛ばし、自身がその軌道に入る。

 避けきれない……!

 団はとっさに腕をクロスさせた。痛みが走る。完治間近だった左腕が悲鳴を上げるが、構っていられない。なんとか攻撃を受け止め、反撃に転じる。

 幸いにも、無事に通行人は逃げられたようだ。

「アァアッ、邪魔するなガキィ! オレの、オレを、バカにっ、バカにしやがってぇ……!」

 再び大きく振りかぶる男だったが、団は思い切りよく屈んだ。ガキィン、と電柱に男の腕がぶつかる。

 男が怯んだ一瞬の隙を突き、低い体勢から一気に男の懐深くに滑り込む。強化された腕のリーチは完全に殺した。硬化した刃は電柱にハマっている。団は巧みにその腕を絡め取り、体重をかけて崩しにかかる。

 強化された腕は重く、文字通り鉄の塊のようだ。

「離せッ離せぇッ!」

「やだね……ッ!」

 団は必死に力を込める。腕の筋肉が軋み、頬の傷がズキズキと痛む。男は抵抗し唸り声を上げたが、団は相手の重心を傾けて男のバランスを完全に崩した。

 素早く地面に押さえつけ、硬化した腕が動かせない体勢に持ち込む。それから、胴体に向かった強烈な一撃を叩き込んだ。男の絶叫が呻き声に変わり、やがて途切れる。異能によって硬化されているのは腕だけのだったようで、ようやく静寂を取り戻した。

 するりと男の力が抜け、彼の腕は普通の腕に戻っていた。団は肩で息をしながら、男を完全に無力化したのを確認する。

 その後、けたたましいサイレンと共に、ホワイトと警察の応援が到着した。規制線が張られ、現場は瞬く間に制圧される。群衆から安堵のため息と、ざわめきが戻ってきた。

 団は汗を拭いながら、通りへと急いで戻った。


「おじさんゴメン! 待たせたよね!?」

 声をかけると、団が電柱の影に置いたビニール袋を手に持っており、「いいや、大丈夫さ」と手渡してくれる。

 その視線は、団の頬を流れる血と、少し震える手に注がれており、男は静かに尋ねた。

「……君は、ホワイトの人だったのかい?」

「ええ、最近入ったばっかりですけど」

 団は照れくさそうに笑った。頬の傷が引き攣る。

「……切り傷だらけだ。痛くないかい?」

「全然。それより、みんなが無事だったことの方がずっと大事ですから」

 団は首を横にふる。多くの人が安全でいられることの方が、団にとっては比べ物にならないほど重要だった。

 男は静かに微笑んだ。その瞳の奥に、一瞬、人のそれとは違う深淵のような闇が、顔を覗かせた気がした。それはすぐに消え去り、再び穏やかな瞳に戻る。

「ひとつ、聞いてもいいかな?」

「ん?」

 風がふたりの間を吹き抜ける。夕陽が西の空を深い赤に染めていた。

「世界を守るためなら――世界を壊すことも、受け入れられるかい?」

 その問いに、団は言葉を失った。

 世界を守るために、世界を壊す。矛盾しているように聞こえるその言葉の意味を掴もうと、団の頭は回転する。

 しかし、返答を探すより早く、胸の奥に何かが引っかかり、声が出ない。それはまるで、理解できない巨大な問いを突きつけられたような感覚だった。

「……ふふ、難しかったかな」

 男は団の沈黙を見て、再び微笑んだ。その微笑は、最初の穏やかなものとは少し違う、どこか遠い響きを持っていた。

 男は微笑を残し、背を向けて歩き出す。団が最初に見た時よりも、少しだけ確信に満ちているような足取りだ。

「ありがとう。ここまでで大丈夫そうだ……答えは、また聞かせてくれ」

 団はその場に立ち尽くし、自分の手のひらを見つめた。

「……また?」

 団が呟いた声は、風にかき消された。



 ドイツに聳え立つWHITE本部。その最上階に位置する重厚な執務室で、ヘルマン・ビスクヴィートは、ホログラムを介して誰かと通信していた。

 空間に淡く揺らぐ像。輪郭は不明瞭ながら、浮かぶ横顔には微かなる緊張の色が滲んでいた。

「……そうか。奴が、動き出したか」

 低く絞り出すような声だった。その言葉に込められたものは、驚きでも動揺でもない。むしろ、来るべき時がついに訪れたという確信に満ちていた。

 ヘルマンの表情からは、普段の温和な微笑みは跡形もなく消え去り、かわりに研ぎ澄まされた静かな怒気が滲んでいる。皺深い額がわずかに寄せられ、青白い光に照らされた瞳がホログラムの先を厳しく見据える。

 その部屋の隅、ただ静かにその様子を見つめる一人の女性がいた。

 もり 一華いちか――ヘルマンの秘書であり、ホワイトに属する隊員である。

 彼女の瞳は、ホログラムの像に向けられつつも、ヘルマンの強張った口元、そのわずかな指の動き、吐き出される呼気の速さ――すべてを逃さず注視していた。

 空間そのものが孕む圧力と、室温を数度下げたような張り詰めた気配が、一華の胸に確かな不安を植え付けていた。

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