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第12話

 深夜の商店街。営業を終えた店々のシャッターがぴたりと閉じられ、看板の灯もすでに落とされている。空は梅雨独特の重い雲に覆われ、じっとりとした湿気が漂っていた。

 通りを行き交う人影もまばらで、風の音すら聞こえない。

 その沈黙を破るように、甲高い悲鳴が響いた。

「すまなかった、っ、助け――!」

 叫び声はすぐに途切れ、直後に水を打ちつけたような濡れた音が響く。

 街灯の明かりが照らし出したのは、歩道に広がる赤黒い液体と、ぴくりとも動かず地面に崩れ落ちた小太りの男の姿。

 その死体を見下ろすように、フードを目深にかぶった人物が立っていた。音もなく踵を返し、闇の中へと姿を消す。

 現場に残されたのは、濃厚な死の匂いと、雨に濡れて歪んだ街灯の光だけだった。


 ホワイトに通報が入ったのは、翌朝のことだった。



 団は、現場に急行していた。

 報告には「異能者による襲撃の可能性」とあったが、現地の惨状は予想以上だった。

 破壊された店舗のガラス、歩道の片隅に横たわるどろどろに溶けた塊は、頭も、四肢も、かろうじてどこの部位かわかる程度で、それが人であったとは信じ難い。

 臓腑と脂肪が混ざり合って地面に染み出しており、視界に入れるだけで胃の奥がねじれるような吐き気を誘う。

 団は、思わず顔を顰めた。

「……食うなよ、和日」

 善の軽口に、和日がむっと頬を膨らませる。

「いやいやいや無理だから! 流石に!」

 それから和日はまるで恐怖も嫌悪も感じていない様子で死体の周囲を軽やかに歩き、肉片を観察していく。

 同じく現場に駆けつけていた善と和日は、捜索部隊として招集され、現場に潜む異能者の痕跡や、不審者の制圧を任されていた。

 善は死体を一瞥してから、近くに残された金属片や布地の焼け具合を確かめていく。

 現場一帯は、ホワイトの処理班によって手際よく囲まれ、シートで目隠しがされている。遺体はすでに検視のための搬送準備が整い、血痕は次々と消毒液で洗い流されていた。

 今回の事件には、監視カメラに犯人らしき姿が映っていたという。

 ヘルマンに見せられた、いさなと酷似した男の姿が、現場近くの防犯映像に一瞬だけ確認された。だがその直後、映像は砂嵐のように途切れ、以降の記録は残っていない。

 異能犯罪集団「イマジン」や「vanitas」。禍との邂逅以来、それらがじわじわと現実のものとして輪郭を帯び始めていた。

「それにしても、最近は雨がよく降るねぇ」

 和日が言いながら、水たまりを踏む。ぴちゃり、と音が鳴った。団がそちらに目を向けると、アスファルトにできた水たまりのひとつが、不自然に濃い色をしていることに気づいた。

 ぬめりを含んだような水面が揺れ、街灯の明かりがにじんで歪む。

 アスファルトの縁は、わずかに変色しているようにも見えた――ただの雨水ではない。

「うわ、なんだこれッ!」

 突然、和日が跳ねるように足を引いた。じゅう……と音を立て、ブーツの先端が黒く変色していく。

 表面がぼろりと崩れ落ちる。

「とけるとけるっ! やばいやばいっ」

 慌てて靴を脱ぎ捨てた和日は、片足で地面を飛び跳ねながら悲鳴を上げた。

「……酸か……?」

 善が水たまりを覗き込む。油膜のような虹色の光が浮かぶその液体は、明らかに普通の雨水ではない。アスファルトの表面も一部が変色し、溶けたような痕跡が見て取れた。

「和日、これ飲めるか?」

「は? 善は伊之瀬のことなんだと思ってんの!?」

 和日は怒ったように振り返る。

「伊之瀬はね、毒とか薬品は分解できるけど、体に入れてから分解するまでに時間がかかるようなやつは無理なの! その前に死んじゃうでしょ!」

 団は二人のやり取りを聞きながら、あらためて現場を見渡した。雨に濡れた商店街の地面、そこに点在するいくつかの水溜まりが、どれもただの水ではないと物語っている。

「それにこれが本当にいさなの仕業だったら……酸だけじゃ済まないよね。何が入ってるかわかんないし」

「毒くらいなら分解しろよ、使えねェな」

「んだとコラァ、やるか!?」

 にわかに始まる口喧嘩に、団は割って入ろうとして口を開いた。しかし、その前にふと、引っかかる言葉があった。

「……あの……いさなって……」

 その時、ビービーッ、と甲高い警告音がタブレットから鳴り響いた。

『緊急連絡。全隊員に通達――和睦町西一丁目の民家で、溺死と見られる遺体が発見されました。異能犯罪の可能性あり。速やかに現場へ向かい、状況を確認してください。繰り返します……』

 淡々としたアナウンスに、三人の表情が引き締まる。

「風呂で足滑らせたとかじゃないの?」

 和日が軽口を叩くが、団はタブレットを操作しながら「違うみたいですね」とそれを否定する。画面には続報が表示されていた。

「……場所は、書斎だそうです」

「書斎……?」

 和日の表情が曇る。水気のないはずの空間。そこでの溺死。

「完全な密室での水死。普通じゃあり得ないな」

 善が短く息を吐く。

「異能の使用が前提だな。行くぞ」

 三人は顔を見合わせると、無言のまま現場へと駆け出した。



 現場となった民家は、住宅街の一角に堂々と構えていた。白い外壁と高い塀に囲まれたその邸宅は、主の経済力を物語るような豪奢な造りだ。

 しかし今、門扉の前にはホワイトのバリケードが張られ、処理班の車両が二台、静かにエンジンを唸らせている。その仰々しさが、ただ事ではないことを如実に示していた。

「和睦町西一丁目三番地。通報者は家政婦。午前七時十五分、書斎で遺体を発見。死亡していたのはこの家の主、松田正信、六十五歳。死亡推定時刻は午前六時前後」

 善が端末を確認しながら補足する。

「同時間帯、妻の小百合と娘の絵里奈はリビングにいたが、不審者の目撃はなし。出入口に破損も痕跡もない」

「で、風呂じゃなくて……書斎?」

 キョロキョロと邸宅の中を不躾に見渡しながら、和日が問いかける。

「ああ、水源なし、浸水の痕跡なしの密室。遺体の肺からは大量の液体が検出されたみたいだな」

 三人は玄関を抜け、無言で書斎へと向かう。この段階で、異能犯罪の可能性が高いと判断され、すでに警察からホワイトへの管轄移行は完了済みである。

「何にせよ、溺死っつう事は水に関連する異能か」

 善が呟く。

「当該異能の登録情報を照らし合わせると、該当者だけでも数千人に登るんですね……」

 タブレットから異能者情報を流し見る団の手がピタリと止まる。水の異能。先日出会ったあおという少女を思い出していた。しかし直ぐに首を振る。

 あの少女が人を殺す姿が想像できない。そもそも動機が無い。団は気を取り直し、書斎へと足を踏み入れた。

 目を凝らしながら、あたりを見渡す。内部は異様な湿気に包まれていた。既に遺体は処理班によって搬出されていたが、机の上には濡れた書類や水滴の残るガラス製のペン立てが残されており、そこで死んでいたのだとひと目で分かる。

「かなりの資産家らしいねぇ。複数の不動産を持ってたって話もあるし、恨みでも買って殺されたんじゃない?」

 和日がぽつりと漏らす。

「怨恨の線も視野には入れるが、なんにせよ異能による犯罪には変わりない」

 善が目を細める。

 捜索と現場確認がひととおり済んだところで、三人は報告と資料整理のため、一旦ホワイト本部へと引き上げることとなった。

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