夕刻。ざわつく風に押されるように、右京は古びた公園裏の廃墟に入った。この近くを巡回していた警察からWHITEへ情報が入ったのは、数分前のことだ。
足を踏み入れた瞬間、ぶわり、と花の濃密な香りがあたりを満たしていた。甘く、けれど鼻の奥を刺すような、異様に濃い芳香。
目に入ったのは、横たわる人影だった。口、鼻、耳、眼窩――身体中の穴という穴から、花が咲き乱れていた。辛うじて服装から警察だと分かり、右京は顔を顰めた。艶やかなその色彩が、命を奪った痕とは思えないほど美しい。
すぐ側に、一人の人影が立っていた。十代後半ほどの、中性的なその人は、容疑者リストにいた人物だ。肩までの髪が、まるで風の中に散る花弁のように揺れている。
「
その名を呼ぶと、相手は一瞬だけこちらを見た。警戒の色はない。ただ、憂いのようなものを宿した瞳が揺れた。
「……うん」
「大人しく着いてきな」
右京は淡々と告げる。眼前の人物が異能がどれほど幻想的でも、右京にとって制圧は容易だった。
――『彼一人』ならば。
突如、背後から降るようにして現れた影。鋭く踏み込む足音。右京は反射的に後ろへ跳ぶ。
切り裂くような風。銀色の刃が、彼の肩をかすめた。
「っ……!」
着地と同時に構える。そこには、見知らぬ男がいた。
三つ編みに結われた黒髪。大きな瞳から刺す眼差しと、笑っているようで感情の全く読めない表情。姿勢の崩れが一切ない。
「ふうん。反応がいいね」
右京の目が細められる。リストには載っていない顔だ。だが、落花は男の名を、迷いなく呼んだ。
「……カラス……出てこないでって言ったでしょ」
「えー、だってずっと隠れてるのは性にあわない、よッ」
カラスと呼ばれた男が、懐から小さな刃を投げる。右京は瞬時に周囲の熱を下げ、空気中の水分を凍らせて氷の障壁を作り上げた。ガキィン、と鋭く金属音を立てて、障壁に突き刺さる。
狙いは正確だった。少しでも反応が遅れていれば、右京の動脈を割いていたであろう鈍色の刃物。
「わは、凄いすごい! 結構本気で狙ったんだけどナ」
パチパチ、と拍手をするカラスに「ふざけてるの?」と顔をしかめる。
そのわずかな隙に、落花が地面に手をついた。アスファルトの裂け目、コンクリの隙間、勢いよく咲き乱れた花々が視界を覆い、空気に甘い匂いが立ち込める。
同時に、花が一斉に爆ぜた。花粉と香りが渦を巻き、視界が歪む。右京は即座に熱で空気の流れを制御したが、今度はカラスが前に出てきた。鋭い踏み込みに、右京は氷で障壁を組立てる。
「チェ、また氷だ」
余裕そうにカラスが氷を叩く。普段なら一瞬で凍らせてしまえば終わりだった。だが、今回は違う。右京の周囲を取り巻くのは乾いたアスファルトとコンクリートの廃墟。地面には湿気が乏しく、空気中の水分も少ない。二人を逃げられないように凍らせるには、異能の精度を支える「素材」が圧倒的に足りない。
熱を放てば、氷は溶ける。氷が溶ければ、障壁が作れない。
――右京は、自分の口角が上がるのを感じていた。
「……わは、いいねその顔……興奮するよ」
カラスが目を開き、黒々とした瞳に右京を映す。
しかし、その緊張を破るように、場を切り裂くような電子音が響いた。ピロリロロ、と軽やかで場違いな通知音。
落花がごそごそとポケットをまさぐり、スマホを取り出すと、声を上げた。
「カラス、いさなが『帰ってこい』って」
「ありゃ、時間だってさ」
カラスが肩をすくめ、右京にウィンクを寄越す。
「また今度、ネ。次はもっと遊ぼ!」
「逃がすと思う?」
右京が掌をかざしたその刹那。落花が再び地面に触れた。湧き出る花びらが、右京の視界を濃密な香気と共に埋め尽くす。花粉が空気を満たし、世界が揺らいだ。
「……っ!」
右京は即座に熱を放ち、空気の流れを強制的に制御する。そのわずかな隙間。花粉が晴れる頃、すでに二人の姿は霧散するように消えていた。
廃墟に残ったのは、甘く鼻を刺す花の香りと、まだ揺らめく熱の余韻だけだった。
「……カラス……」
右京は、地面に転がったナイフを拾い上げ、目を細めた。
団と善は、重苦しい雰囲気でホワイト本部へと帰還した。無言で歩く団の背には、未だあおの最後の言葉が残響のようにまとわりついて離れない。
エレベーターを降り、無機質な扉をくぐって情報局の執務室に入ると、既に要が卓上端末を操作して待っていた。青白いスクリーンの明かりが、彼の表情を淡く照らしている。
「……おかえり、二人とも」
「……ああ」
善が舌打ち混じりに椅子へと腰を落とすと、乱暴にタブレットを投げ出すように机へ置く。
「……容疑者リストにいた『あお』っつう女、団の知り合いだったらしい」
要はわずかに眉を動かすだけで、善の報告を受け入れた。団の方には視線を向けない。あえてなのだろう。
「いさなの毒で……完全に不意を突かれて……っ。逃げられました。……すみません」
自分の無力さを噛みしめるように、団は拳を握りしめてうつむいた。その声は低く、少しだけ掠れている。
要は端末を操作し、いさなとあおの顔写真をホログラムで浮かび上がらせながら微笑んだ。
「でも進捗はあったよ。vanitasのメンバーがいさなとあおの二名だと確定できただけでも、今後の対応が変わってくる」
その時、扉が開き、冷気を引き連れるように右京が入ってくる。
「……戻ったよ」
短く一言だけ発し、右京は団の隣に立つ。要は軽く顎を引いて問いかけた。
「収穫は?」
「容疑者リストにいた『落花』って男がいた」
その名前に、場の空気が一瞬だけ緊張に染まる。
「……んで、捕まえられたのか?」
善が問うと、右京の目が冷たく細められた。
「……いいや。邪魔が入った」
「邪魔ァ?」
「ああ、容疑者リストにも居ない男だった……明らかに、一般人の身のこなしではない男だった」
その口調には、苛立ちが混じっていた。右京でも捕まえられない男。団は、ふと口を開いた。
「……どんなやつらだったんですか?」
右京は黙って数秒、そのまま記憶を辿るように視線を宙に漂わせ、ぽつりと呟いた。
「落花の異能は、情報通り花を操る異能だろう。でも動きが直線的で、対処は簡単だった……俺が興味あるのは、もう一人の方さ」
右京は静かにそう言って、拳を握りしめた。悔しさからではない、その顔にはほんの少しの微笑みが浮かんでいた。強い獲物を見つけたハンターのように、ぞくりと殺気立つ笑顔だ。
「その人もvanitasと関係がありそう?」
要はホログラムに新たなデータを追加するように操作しながら右京に問う。
「さあね。落花からは『カラス』って呼ばれてたかな」
「カラスね……」
静かに、しかし確かにその場の空気が締まる。要は報告書を完成させると、どこかへと送信したようだった。それからホログラムを起動させ、いさなを中心に、今回容疑者からvanitasの一員だと確定したあお、落花の姿が浮かぶ。
団は言葉を飲み込んだまま、あおの笑顔を見つめていた。
「……目的がなんであれ、彼らは異能犯罪者だ。……ホワイトとして、彼らを必ず止める。分かったね?」
要の鋭い視線に、団たちは頷いた。
団達がvanitasを取り逃した数日後。和日と犬飼は、空港のベンチに腰掛けていた。
普段ならばもっと実働らしいことをしているはずの彼女だが、今回ばかりは犬飼の命により、支部に派遣されてくる「ある人物」の迎えを担当させられていた。
広いロビーに響くアナウンスを背に、和日はぶすっと唇を尖らせる。
「はぁ~~~……伊之瀬も現場に行きたかったぁ~~~っ……」
椅子の背にもたれ、天井を仰ぐように嘆く声は、周囲の旅行客から小さな視線を集めるが、本人はまるで気にしていない。
手元のタブレットには先程入ったばかりの、団たちがvanitasを取り逃したという情報が届いていた。
「和日、足を閉じなさい。はしたないぞ」
「う〜犬飼さーん、何で伊之瀬だけコッチなの〜」
「仕方ないだろう、お前の異能は、いさな相手だといささか分が悪い」
いさなの使用する能力は毒であると推論されている。さらにvanitasに関連する異能は、そのどれもが和日には相性が悪かった。
「でもさぁ〜、だってさ? 右京が逃げられちゃうくらいの強敵なんでしょ? 毒も頑張れば分解出来ないことも無いしさぁ……うう〜」
ぶつぶつと愚痴をこぼしていると、不意に聞き覚えのある、否、聞き覚えしかない大声が遠くから響いてくる。
「はぁぁあああああ!! ひっさびさの!! 日本の空気ぃぃい!!」
犬飼は即座に顔をしかめ、額を押さえる。
「……来たな……」
自動ドアの向こうから現れたのは、軽やかに風を受けるように現れた女性――森一華だった。
ベージュのトレンチコートをひらめかせ、黒のブーツを鳴らして、両手を広げたまま深呼吸している。肩にはごく小さなキャリーケース一つ。荷物の量に反して、その存在感は完全に過剰だった。
「おつかれ~、一華ちゃん。迎えに来たよ~」
和日が手をひらひらと振って声をかけると、一華がくるりと振り返り、ぱぁっと満開の笑顔を咲かせる。
「和日ちゃんっ! 犬飼さん! ひさしぶりぃぃぃ!!」
その勢いで駆け寄ってきた一華は、いったん足を止めると、その場で天を仰ぎ、目を潤ませながら語り出した。
「はああ……この空気を、要ちゃんも吸って……吐いて……吸って吐いて……吸って吐いてしてその二酸化炭素を植物が取り込んで、そして酸素になって……それを私が……吸ってるぅぅぅ……!!」
「うへー……相変わらずだね、一華ちゃん……」
目を白黒させながら、和日は軽く引いた顔で相手を見る。だが内心、懐かしさもあった。
一華のテンションの高さは、もはや彼女の仕様のようなものだ。普段はドイツ本部所属でなかなか会う機会はなかったが、何度か国際任務や会議を通じて顔を合わせていたし、なにより和日はこの猪突猛進さが嫌いでは無い。
「いやほんと、日本にいるってだけで……要ちゃんの思想が空気に溶け込んでる気がして……尊い……」
うっとりと語る彼女に、犬飼は盛大にため息をついて「重症だな」と肩をすくめる。
とはいえ、苦笑いを浮かべながらも、再会の空気にどこか和んでいた。こうして全力で推しに生きる彼女は、うるさくも、どこか眩しい。一本芯が通っていて、日本支部にはまたいないタイプの人間だ。
「で、今回はどれくらい日本にいるの?」
軽い調子で尋ねると、一華は少し口元を引き締めて答えた。
「ひとまず、vanitasの件が落ち着くまでって言われてるよ。ヘルマンさんにも、いさなの異能について探ってこいって言われてる」
「ふーん、なるほどね……てことは、結構長くなりそう?」
「そう! 実質、要ちゃんのそばにいられるボーナスタイム!」
語尾にハートマークでも付きそうなほどぱああと幸せそうに笑ってから、すぐさま咳払いをして言い直す。
「……じゃなくて、お仕事も頑張ります!」
和日は思わず吹き出し、荷物を受け取りながら歩き出す。
「じゃ、任務初日ってことで、まずは何か食べようよ。犬飼きょくちょーが奢ってくれるって」
「……はあ、仕方ないな」
「ほらほら、許可は取った! 一華ちゃん何食べたい?」
「ん~、じゃあ和睦町に美味しいオムライスのお店があるって要ちゃんから聞いたんだけど……」
「よし、じゃあケッテーイ! 基地戻る前に行こっか」
「やった~!」
二人の軽やかな足音が、空港の静かなタイルを跳ねていく。
まるで嵐のように騒がしい二人の背中を後ろから見つめ、犬飼はひととまの平穏を噛み締めていた。
喫茶「すぎた」。
ホワイト基地から徒歩十分。年季の入った木製のドアをくぐれば、鈍く光るランプと年季の入ったカウンターが目に入る。壁にはジャズのポスターと、古びた柱時計が静かに時を刻んでいる。
この店はただの喫茶店ではない。
ここは、ホワイトの監視下にある。機密情報の漏洩を気にせず、隊員同士が腹を満たしながら言葉を交わすための隠れた拠点。常連はほとんどホワイト関係者、外部の人間が無関心に素通りしていくのも、マスターの異能によるものだった。
一定範囲内の音声と映像を完全に遮断する認識阻害の異能のため、ここで交わされる会話が外部に漏れることはない。要が「おすすめ」と言えば、つまりはそういう意味だ。
奥のテーブル席に、和日と一華は腰を下ろしていた。アンバー色のステンドグラスから差し込む光が、ノスタルジックな雰囲気を演出している。
「いただきます」
一華は両手を合わせてから、スプーンでふわとろの卵を崩し、嬉々として一口運ぶ。ひと噛みごとに表情が明るくなっていくのが目に見えて分かった。丁寧に煮込まれたデミグラスソースが皿の上に広がり、チキンライスと絡むと濃厚な味が広がる。
ここのオムライスは絶品である。マスターが養鶏場から仕入れた卵を使用し、客の好みに合わせて焼き加減を変えてくれる。一華は半熟が好きだ。
「美味しい〜! やっぱ要ちゃんオススメにハズレ無しッ」
対する和日は、目の前のテーブルに並ぶ品の数々――ナポリタン、ピラフ、ミートグラタン、ビーフシチューとパンのセット、ハムサンドにコーンポタージュ――を、吸うように食べていく。
「きょくちょー、オカワリしていい?」
既に空っぽになったオムライスの皿を見つめ、「少しは遠慮を知れ」と犬飼がコーヒーのカップ越しにぼそりと漏らす。事前に財布の中身を確認しておいて正解だったと、内心では胸を撫で下ろしていた。
店内の空気は静かで心地よかった。古いスピーカーから流れるジャズピアノの旋律が、どこか懐かしく、落ち着きをもたらしてくれる。
マスターは、あいかわらず店の奥に根を張ったままだった。カウンターの中で黙々とガラスコップを磨く姿は、まるで風景の一部のように静かで、不動である。
一華がスプーンを休めて、口元をぬぐいながら視線を犬飼へ向ける。
「それで……拠点とかはもう目星は着いてるんですか?」
その問いに答えるのは犬飼だ。
「いや。逃げられて以降、vanitasは表立った動きを見せていない。要もまだ、確定的な情報を掴み切れていない」
一華の表情が少しだけ険しくなった。
「ドイツでも色々調べてたけど、やっぱり直接見ないことには私も異能をコピーできないし……事件の発生予測とか、出てないの?」
和日はコーンポタージュのカップを持ち上げ、最後の一滴を啜ってから、ふぅと息を吐く。
「なーんにも」
ぺろ、と上唇をなめ、和日は頬杖をついた。
「いさなも、あおも、落花ってのも、それぞれバラバラに動いてるみたいだしさぁ。しかも、どの被害者もイマジンに関係してたけど……じゃあその線で次も来るかって言われると、確証はないってのが情報局の見解。右京が取り逃しちゃったカラスっていう男についても不明〜」
事件の本質が「計画的な報復」か、「選別された粛清」か、まだ見極めがつかない。
「……少なくとも、ただの快楽殺人ではないってことだけは分かるかなぁ」
犬飼が腕を組み、深く息を吐いた。
「復讐でも正義でも、結局それで人を殺せば同じことだ。異能犯罪はホワイトが必ず捕まえる」
犬飼の言葉に、一華は黙って頷く。視線を伏せ、オムライスの残りをすくい取った。