部屋には、静寂が満ちていた。天井の間接照明が淡く灯り、影と光の輪郭を柔らかく滲ませている。
禍は黒い陶器のカップを手に、珈琲を口に運んだ。微かに立ち上る湯気と共に、奥深いスモーキーな香りが鼻腔をくすぐる。
舌の上で力強い苦味が広がり、喉を通る頃には、かすかな甘さと共に燻されたような独特の風味が残る。マンデリン特有の重厚な味わいは、禍の沈黙をさらに深めた。
そのすぐそばのソファでは、少女がぺたんと座り込み、絵本を読んでいた。ページの端を指でつまみ、静かにめくる。その動作に淀みはないが、そこに物語を楽しむ気配もなかった。ただ羅列された文字を一文字ずつ追うだけの行為。
少女が読む絵本は子供向けの空想童話だった。挿絵は鮮やかだが、少女の目に色彩の喜びは映っていない。
そのとき、静かに扉が開く。靴音は柔らかく、控えめだ。入室してきた男は禍の側近の一人で、革の手袋を外しながら、恭しく一礼する。
「報告いたします。……いさなが、イマジンの協力者を次々と処理して回っているようです」
禍はわずかに目を細め、口元にわずかに笑みを浮かべた。
「……いさな、か」
カップをソーサーに戻す音が、妙に静かに響く。
「久しいな……なあ、ラナ」
呼びかけても、少女――ラナはすぐには反応しなかった。絵本に視線を落としたまま、ただ淡々とページをめくり続ける。
だが数秒の沈黙の後、ようやく、ぱちりと瞬きを一度だけしてみせた。その緩やかな動作に、禍は微笑む。
「おいで、ラナ」
ゆっくりと、ラナは立ち上がる。ソファから一歩、また一歩。禍の前まで進み、無言のまま立ち止まる。
禍は椅子から半身を起こし、ラナの頬に手を添えた。
白い包帯に覆われたラナの右頬を愛おしげに指先でなぞる。ごつごつと歪な輪郭を、丁寧に。
「……ラナ。君はいさなをどう思う?」
ラナは首を傾けた。
「………………?」
やがて、きょとんとした顔で禍を見下げる。なんの色も映すことのない虚ろなその瞳を見て、禍はまた微笑んだ。
「……ああ、ラナには難しかったかな」
優しく頭を撫でたあと、手を離す。禍は再び椅子へ深く腰を下ろし、珈琲のカップを持ち上げた。黒く光る珈琲の液面に、自身の表情が歪んで映る。
ゆっくりと、禍は静かに呟いた。
「……近いうちに、再会できるさ」
そしてカップを置いた禍は、やや声を和らげて言う。
「絵本を読んでいたんだろう。邪魔して悪かったね」
ラナはこくりと頷き、またソファに戻る。ぺたんと座り込み、ゆっくりとページをめくり始めた。
ページをめくる音だけが、再び静寂に溶けて行った。
いさなとあおに逃げられたあの日から、数日が経過した。
vanitasの動きは、まるで嘘のように止まった。痕跡も気配も掴めず、ホワイト総出での捜索も空振りが続く。団たちもあらゆる手を尽くしたが、結果は変わらなかった。
「あー、なんっっの進展もねェ!」
共用スペースのソファに寝転がった善が、天井を仰いでうんざりと唸る。
団もテーブルに肘をつき、だらしなくタブレットを眺めていたが、表示された捜査資料の文字はまるで頭に入ってこなかった。思考を占めるのは、あおの顔ばかりだ。あのとき、彼女が残した「ごめんね」の言葉が、今も胸に引っかかっていた。
「……なんで……」
思わず呟いたその時、端末が鳴った。
『千木良、真田。情報局まで来てくれ。紹介したい奴がいる』
犬飼の低く抑えた声だった。
情報局に向かうと、すでに右京と和日が待っていた。
「お疲れ様です。……って、そういや和日さん。最近姿見えませんでしたよね。捜査中も途中からいなくなってたし」
団の問いに、和日はけろりと笑って言った。
「ん? 一華ちゃんのお迎えだよー」
「……げ」
「ゲェ」
即座に顔をしかめる右京と善。団はぽかんと目を丸くして、その名を繰り返した。
「……一華?」
そのタイミングで、情報局の扉が音を立てて開く。先頭を歩く犬飼に続き、ヒールの音が響いた。トレンチコートを揺らしながら、一人の女性が姿を現す。
艶のある黒髪。整った顔立ち。にこやかな微笑。彼女の登場と同時に、団の隣に並ぶ善が「出たよ」と嫌そうに呟く。
「紹介しよう。ドイツ本部・広報・渉外局所属、森一華君だ。しばらくの間、日本支部で情報局と特局の支援に入ってもらう」
「やっほ〜、右京ちゃん、善ぴ! ひっさしぶり〜!」
軽く手を振って明るく笑う彼女に、善と右京の顔が同時に引き攣る。
「……善ぴじゃねェ」
「その呼び方やめてって言ったよね」
二人から抗議が飛ぶが、一華はどこ吹く風といった様子でさらに笑みを深めた。
その視線が、次に団へと向けられる。
「で、君が『正義感で突っ走る系少年』の真田団くんだね?」
「え、あ、はい……真田です。はじめまして……」
あまりにも唐突な呼び名に団は戸惑いながらも、真面目に頭を下げる。一華はうんうんと満足げに頷き「要ちゃんから色々聞いてるよー」と嬉しそうに微笑んだ。
「……はあ……」
困惑する団は、犬飼へと視線を投げかける。
「あの、ドイツ本部の広報の人が、なんで日本の特局に……?」
「……彼女はボス――ヘルマン直属の秘書でもある。要とも密に連携しているので情報にも長けている。」
「あと私、コピー型の異能持ちなの。相手の異能を見て、理解して、条件を満たせばコピーできる。直接の解析や対処に向いてるのよ」
小さくウインクしながら、胸元を指先でトンと叩く。
「vanitasの異能は、複雑に入り組んでるの。人体実験が関係してるせいで、複合因子が絡んでるし……外部からじゃ、どんな能力かなんて読み解けない。――だから、私が直に見に来たってわけ」
なるほど、と理解する団は、改めて一華を見た。
「まあとりあえず、これからちょこちょこ顔合わせると思うから、仲良くしてね」
「はい」
一華が手を差し出し、握手を求めてくる。団はそっとその手を握り返した。
一華との任務は、思ったよりも早いタイミングで訪れた。
vanitasの一人、落花と思われる人物が、郊外の廃ビル付近で目撃されたという情報が入ったのだ。現地には右京と団が派遣され、かつて落花と一度対峙した経験のある右京が先導する形で現場に急行する。
到着したその場所には、すでに一華が佇んでいた。風にたなびく黒髪とトレンチコート。無機質なコンクリートの中に、彼女の存在だけが妙に浮かんで見える。
「一華さん!? は、早いですね……」
驚きながら駆け寄った団に、一華はくるりと振り返り、にこりと笑う。
「まあね。要ちゃんと直接やりとりしてるから、先に動けたの」
小さくタブレットを掲げて見せると、そこにはすでに現場周辺の地形データと異能反応の簡易ログが表示されていた。
右京が腕を組みながら歩み寄り、淡々と尋ねる。
「で? なにか見つけたのかい」
「んーん、手がかりなし。というか、目撃情報そのものが間違いなんじゃないかなぁ……」
一華はそう言ってしゃがみこみ、足元の乾いたコンクリートを触る。周囲には、植物どころか土すらほとんど露出していない。
「右京の話だと、お花を操るんでしょ? その落花って子は……」
目を細めて周囲をぐるりと見渡す。
「どう見ても、咲かせる場所がないよね。ココ」
「……その通りだ。けれど、種を体内に仕込んでから発動するパターンもある。土がなくても攻撃手段はありそうだったよ」
右京の声には、かすかな警戒が滲んでいた。一華は「なるほど」と言いつつも、どこか納得がいかない様子で、髪を耳にかけながらタブレットの画面をスクロールする。
結局、今回も手がかりは得られなかった。一華と右京、そして団の三人は、陽が傾き始めた道を引き返す。
「空振り続きですね……」
団がぽつりと呟くと、隣を歩く一華が苦笑するように肩をすくめる。
「動きが止まってるってことは逆にだよ、『準備中』ってことでもあるもね……嵐の前の静けさ……ってやつ」
「嵐の前の……」
団がその言葉を繰り返すように呟く。
「ま、だからこそ、できうる限りの準備はしとこうね」
「……はい」