一華のいう嵐の前の静けさだという言葉通り、vanitasの動きがピタリと止まった。
団たちはその後も手がかりを掴めず、ただいたずらに日々が過ぎていくばかりだった。
春が過ぎ、異能犯罪の件数も落ち着いてくるころ。任務も減り、団は空いた時間を自主訓練にあてようと地下の廊下を歩いていた。
かつて負傷していた左腕も、今ではすっかり完治している。そろそろ本格的に鍛え直さねばと気を引き締めたそのとき、後方で甲高い声が響き渡った。
「かっなめちゃーーーーーん!!」
反射的に声の方を振り向く。勢いよく飛びつくように駆けていく一華と……その先にいたのは要だ。
「わっ、一華!」
不意を突かれて小さくのけぞる要。表情には驚きと、それ以上の懐かしさが浮かんでいた。
「要ちゃーーーん! やっと直接会えたー!」
両腕を広げて歓喜を爆発させる一華。団が近づきながら、二人に声をかける。
「要さん、一華さん」
「あ、団くん」
一華にぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、要が軽く手をあげて応じる。
「……お二人はどういう……?」
「一華は俺の幼なじみなんだ。昔からこういう子でさ」
「んふふ、要ちゃんは小さい頃からずっと優しかったんだよ~? 今だって、毎日『最高素敵記録』を更新してる!」
腕を組むようにぴたりと寄り添ってくる一華。その勢いにやや引き気味になりながらも、団はなるほど、と頷いた。
以前から、一華がたびたび親しげに「要ちゃん」と話題にあげていたことや、和日が「要ちゃんオタク」と呼んでいたこともあり、いま目の前で繰り広げられるこの光景に合点がいったのだ。
要は、どこか困ったように眉尻を下げながらも、優しく目を細める。
「どう? 久しぶりの日本は」
「もうね、要ちゃんに会えるってだけで任務三倍は頑張れる!」
「はは、変わらないね、一華は」
和やかな空気が流れたところで、一華がはっと腕時計を見る。
「あっ……そうだった! 紗月さんに呼ばれてるんだった……うぅ、名残惜しいけど……」
彼女はくるりと踵を返す。それから振り返って、右手を唇へと持っていった。
「要ちゃん、チュース♡」
チュ。投げキスとともに廊下を駆けていくその姿を、団はぽかんと見送った。隣では、要が困ったように腰に手を当てて「……毎回あれなんだよ」とため息をつく。
「チュース……?」
「ドイツ語でバイバイって意味の『Tschüss』と、投げチューをかけてるんだって。面白いよね」
しかし、言葉とは裏腹に、その声色にはほんのりと微笑がにじんでいた。
団が小さな声でこっそりと尋ねる。
「……お付き合いとかは……」
「してない、してない。一華は妹みたいなもんだよ」
そう言ってヘラリと要が笑った。
訓練室の照明に照らされた床に、団が一人、汗だくになりながら仮想敵と対戦していた。打ち込みや間合いを確認し、ひとつひとつに真剣さがにじむ。
びゅ、と仮想敵の放つ拳が段のみぞおちを目掛けて飛んでくる。団は背後に飛び退きそれを交わすと、壁を蹴った勢いで仮想敵へと飛び蹴りを食らわせた。
禍のこと、vanitasのこと……そしてあおのこと。考えなければいけないことは沢山あった。だが、身体を動かしている時だけ、その全てを忘れられた。
五体目の仮想デモ異能犯罪者を倒しきったところで、団はようやく一息つく。
もっと強く、強く。右京や善のような強力な異能はない。要のように、要領良く立ち回ることもできない。だからこそ、もっともっと、強くならなければ。団は肩で息をし、手の甲で額の汗を拭う。
そのときだった。背後の自動ドアが音を立てて開く。
「随分と熱が入ってるね」
聞きなれた無機質な声。右京がいつも通りの無表情さで、腕を組み団を見下ろしている。
「右京……」
「聞いたよ。vanitasに知り合いが居たんだって?」
その言葉に、団はゆっくりと視線を落とし、拳を握り込んだ。
「……優しい子だったんだ…………それなのに……」
言葉を絞り出すものの、それきり黙り込んでしまう。団はぐっと目を瞑り、それから「なあ」と顔を上げた。
「右京はさ……友達がもし敵になったら……捕まえられる?」
真剣なその問いかけに、右京はふっと目を細め、数秒の静寂を挟んでから応じる。
「……そもそもの大前提が間違えている。俺は友達なんか要らないよ」
「え、……いや、ええ……」
団は思わず声を詰まらせた。右京らしい、といえばらしい。続いたのは「そんな甘えた考えは捨てる事だ。俺は親であろうと、犯罪者はすべからく処す」というなんとも冷たい答えだった。
「……ちょっとまって、俺は? 俺とは友達だろ」
冗談めかして言った言葉に、右京の顔が一変する。嫌悪を隠すことなく、心底うんざりした目で睨みつけてきた。
「はあ? 何ふざけたこと抜かしてるんだい、君は俺の友達でもなんでもない、ただの同僚さ」
「……じゃあ俺が敵に回ったら?」
問いの意味は重い。団がその立場に追い詰められた今、どうあるべきか、どうするべきか。それを問う叫びでもあったのだ。
「その時は君を捕まえて牢屋にぶち込むさ。当たり前だろう」
団はぽかんと口を開けたまま、完全に言葉を失った。あまりにも迷いのない答え。
団はすぐに肩を震わせて、くく、と笑い声をもらす。
「……ひっでー、ほんっとに冷たいっていうか、容赦ないっていうか」
「事実を述べただけさ」
右京はつまらなそうに目を細める。
「……じゃあその“ただの同僚”に、少しだけ手を貸してくれない? ……強くなりたいんだ」
団は笑いながら息を整え、再び構えを取った。汗に濡れた前髪の下から、強い意志の光がのぞいている。右京はその言葉に、ほんのわずかに口角を上げた。
「いいね、戦うのは大好きさ」
その声には、明確な闘志と、淡い期待があった。