「やぁっと自由って感じ」
ぐっと両腕を伸ばし、ひとつ大きく背伸びをする。ニコはキャップを深く被り直しながら、周囲の人波に自然と紛れた。せっかく逃げ出せたのだ。今ここでまた誰かに見つかっては元も子もない。
とはいえここはショッピングモール。人が多い。とにかく見つからないようにと、人の流れの少ない裏通路や脇道を選んで進んでいたニコだったが、それが裏目に出てしまった。
不意に、背後からぐいっと腕を掴まれる。
「っ……なにっ!?」
ニコが驚いて振り返ろうとしたが、男の力強い腕でそのまま壁に叩きつけられるように押し当てられてそれは叶わなかった。
「いっ……たあ……!」
身動きしようにも、すぐさま両手首を後ろ手にねじ上げられた。ぎり、と痛みが走る。ニコは顔をしかめ、視線だけで背後をうかがった。
「お前、遊馬ニコだな」
低く抑えた声が耳元に落ちる。知らない男の声だ。ニコは視線だけを背後に巡らせ、相手の一部をうかがう。無表情で無機質な目。異様な圧と存在感。まるで人間ではない何か――
「……だれなの、」
口を開く間もなく、今度は口元を手で塞がれる。呼吸が止まりそうになる。
鼻で息をして、必死に冷静を保とうとするが、耳に入ってきた言葉がとどめを刺した。
「騒ぐな。騒げば、このモールにいる人間を全員殺す」
「……っ!」
ぞくり、と背筋が凍る。動けばお前を殺す、ではなく、このショッピングモールにいる無関係の人間が殺される。冗談じゃない、ニコは悔しさで目を瞑った。
こんなことならば、峠から逃げ出さなければ良かったと後悔しても、今更遅い。ニコは必死に抵抗しようとするが、両手はがっちりと拘束されて動かない。声も出せない。ただ、心臓が恐ろしい速さで脈を打っていた。
「大人しくついてこ――」
男の声が、不意にぷつりと途切れた。
男の体が自分にのしかかるようにして、ずし、と崩れ落ちる気配。
手首を掴んでいた手が、急に重さを失ったように外れた。
「え?」
拘束の力が緩み、ニコは壁に前のめりでもたれ掛かる。すぐに両腕を胸の前へ引き寄せ、恐る恐る振り返ろうとした。
「あ、見ない方がいいんじゃないかな」
――やけに静かな声がすぐ近くから聞こえ、目の前に誰かがすっと入り込んだ。
ニコの視界に、黒い髪と、底の知れない、吸い込まれるような瞳が映る。
黒色。とにかく黒色が目いっぱいに映る。星空のような、深海のような、そんな静かな色だった。そこには何の感情も浮かんでいない。ただ無限の冷たさだけが広がっている。
その瞳を見た瞬間、ニコは世界の音が遠ざかるのを感じた。
「……好き」
思わず飛び出た告白に、男はぱちくりと目を瞬かせた。その表情の変化に、ニコもようやく自分の口から飛び出た言葉の意味を理解する。
「――じゃなくてっ、ちがっ、今のは! あの、忘れて!」
顔が熱くなるのを感じながら、ニコは一歩、ぐっと後退した。
その瞬間、足元でぬかるんだような音がした。
――ぐち。
ニコの視線が、自然と地面へと吸い寄せられる。そうして視界に飛び込んできたものに、一気に現場に引き戻される。
さっきまで自分を拘束していた男が、仰向けに倒れていた。首が、綺麗にえぐられて、そこから血が音もなく流れて床を染めている。
「……っ!」
さっと血の気が引いた。さっきまでの恥ずかしさも、安堵も、すべて吹き飛ぶ。
「あーあ、だから見ない方がいいって言ったのに」
男は肩をすくめると、血だまりの中から一歩、足を引いて離れた。靴の裏に返り血が跳ねていたが、本人はそれを気にする様子もない。
「ま、助けて上げたんだしサ、なんかお礼ちょーだい、ニコちゃん」
「……え、なんで分かったの――」
咄嗟に出た疑問。けれど、それよりも目の前の男の顔を見直して、ニコは息を呑んだ。
瞳。やはり、あの瞳だ。どこまでも吸い込まれるような、そんな色。感情のないはずなのに、そこにはなぜか温度があって、見つめていると、心の奥をじんわりと照らされるような錯覚に陥る。
「好き……」
また口にしていた。男が再びきょとんとした顔を向けてきて、ニコは慌てて口を塞いだ。
――少し離れた壁の影に身を沈めながら、弁天峠はしゃがみ込んでいた。
片耳には薄型のイヤーピース。手元の端末には、ニコのリアルタイムの位置情報が表示されている。画面をなぞる指は軽やかだが、瞳は冴えていた。
峠が覗いたその先、イマジンの構成員の遺体――首から血を流して崩れた男。そして、ニコの唇が『好き』と告げるその瞬間だった。
「あっひゃひゃひゃ! うそやろ、告白しよった……!」
腹を抱えて転がりながら大笑いし、峠はその場に膝をついてしばらく呼吸を整えた。
ようやく笑いきって体を起こすと、再び陰から覗き込む。彼女の隣に立つ、黒髪の少年。
その瞳を見た瞬間、峠は静かに目を細めた。宇宙のように深く、底が見えない黒。何も語らないまなざし。なのに、空気を静かに支配する圧。
タピオカのストローをすすりながら、峠はゆっくりと腰を下ろした。気の抜けたような動作の裏に、確かな緊張が張り詰めている。
「こらまた、好きになる相手間違えたなぁ、ニコちゃん……。運命の出会いっちゅうより……」
呟きながら、肩を一度だけ小さくすくめる。ニコの目前にいるのは――vanitasのカラスだ。
共有された報告書通りであるならば、奴は半端なく強いといえる。
「さて……どのタイミングで割り込もかいな」
ずご、と最後のタピオカを飲みきる。遊び半分のようでいて、その視線は鋭く、隙を逃さぬ狩人のそれだった。
峠の瞳は、黒い影をじっと見据えていた。
暫くじっと黙って見つめあっていた二人だったが、カラスはやがてぽりぽりと頭をかいた。
「……困ったナ。別に何かするつもりだったわけじゃないよ」
そう言って、ニコから数歩離れると、彼は一度だけニコを振り返る。
「いさなやイマジンが、君に興味を持ってた。だから、どんな子なのか気になっただけ。……ま、頑張って生き延びなネ」
それだけを告げて、ふらりとモールの影へと歩き出す男。その背に、ニコは思わず手を伸ばしていた。
「待って!」
男の足がほんのわずか止まる。ニコは息を飲んで言った。
「あの……名前、教えて!」
一瞬の間のあと、黒髪の少年は軽く振り向き、ほんのりと笑みを浮かべた。
「カラス」
じゃね、と手を振るカラスの背中を、ニコは茫然と見送った。艶やかな黒髪と、あの瞳によく似合う名前だ。
ニコはその名前を何度も反芻し、ほう、とひとつ息をつく。
「ニコちゃ〜ん、無事か〜?」
間の抜けた声が響いたのは、その直後だった。まるで最初から見ていましたと言わんばかりに、柱の陰からひょっこりと顔を出したのは、峠だ。
「……弁天さん」
ニコが振り向くと、峠はのんびりとした調子で手をひらひらと振りながら近づいてきた。その視線が、足元に横たわる血塗れの死体に向けられたのは一瞬だけ。
「……いま処理班呼んどいたから。今日はもう帰ろか、疲れたやろ、いろんな意味で」
からかうような言葉ではあったが、峠の声はいつになく穏やかだった。ニコは少しだけ間を置き、それから素直に頷く。
「……うん」
そのままモールを後にし、峠の呼んだタクシーに乗り込む。車内はずっと静かで、ニコは流れる景色を見つめながら何度もため息をついた。
控え室に戻ると、すぐにマネージャーが駆け寄ってきた。
「ニコ! ……まったく、逃げ出すなんて何かあったらどうするのよ!」
心配と怒りが入り混じったような声音。しかし、ニコはその顔を見ながらも、どこか上の空だった。
「大丈夫だよ、実際無事だったでしょ」
そう言って笑ってみせるが、心は別のところにある。
カラス、カラス。何度も心の中で繰り返しても、じんわりと熱い気持ちが胸の奥に渦巻いたまま消えてくれない。
マネージャーの言葉も、峠の声も、少し遠く感じる。
深く沈んだソファに身を沈め、禍は目を閉じていた。レコードから流れるニコの歌声に、穏やかな表情を浮かべて聴き入る。透明で柔らかく、それでいて確かな力を宿すその音色に、禍はやがてぽつりと口を開いた。
「やはり……欲しいな……」
呟くように漏らされたその言葉に、対面に控えていた白髪の少年が静かに頷いた。
「遊馬ニコは現在もWHITEの厳重な監視下にあります。先日の襲撃からさらに警戒態勢を強めたようで、接触が難しくなりました」
禍はゆっくりと目を開ける。鈍く光る瞳で天井を見つめ、数秒の沈黙が流れた。
かと思えば、唐突に別の話題を切り出す。
「ラナの調子はどうだい」
ピクリ、と少年の指が動く。
「……変わりなく」
淡々とした口調とは裏腹に見え隠れする動揺に揺れる瞳に、禍はふ、と微笑みを零した。無意識だろうが、少年の手に持つ資料の端が、くしゃりと小さな音をたててシワを寄せている。
「ペグリッフに伝えておいてくれるかい……ラナも、連れていくと」
少年は、明確に表情を曇らせた。声を飲み込むようにして静かに頷く。
「…………はい」
「ああ、もちろん君もね――天」
柔らかな声で続けた禍に、少年――天は、ぐっと眉根を寄せて頭を下げた。
「承知……しました」