ぶわっ、と。全身の毛が逆立つような感覚が走る。
(な、なな……っ!?)
一体、いつからだろうか。
全く気が付かなかった。そしてあまりに自然だったせいで、その存在を認識しても尚、違和感を持つことができなかった。
まるで、初めからそこにいるのが当たり前だったみたいな……。
「えへへ。カイト様のお背中、かっこいいです。私とは違い、広く、逞しくて。それに意外と、筋肉も……♡」
「っ……」
背中から囁かれる甘い声には気付かないふりをして。既に泡だらけでもこもこな髪を擦り続ける。
そして、チラリと。浴室の扉に目をやった。
ここの出入り口はたった一つしかない。とすれば、やはりあそこから堂々と入ってきたということになるわけだが。
……気付かないものだろうか。
いや、気付かなくてもおかしくはないのか。例えば浴槽に浸かり始めてすぐの頃なら、或いは。少しの物音や人の気配のようなものに気付けた可能性はあったかもしれないけれど。
さっきまでの俺はお湯に身体をとろとろに解されており、明らかに注意力散漫だったように思える。そのうえ、″変なこと″を考え込んでいたせいで……ん゛ん゛っ。
と、ともかくだ。おそらくフィオがここに侵入したのは、俺がそうなってからということだろう。
冷静になった今の頭で考えてみると、思えば一つ、おかしいところがあった。
(いつの間にか″湯煙″が晴れていたのは、コイツが浴室の扉を開けたせいだったのか……)
そう。湯煙である。
ここに来てしばらくの間、湯煙はずっとこの浴室内を満たし続けており、時間が経過してもそれは一向に晴れる気配が無かった。
だが、ある瞬間から。湯煙はまるで″浴室の外に出て行ったかのように″、あっという間に姿を消してしまったのだ。
そしておそらくそれは、フィオが扉を開けて侵入してきたことによるものだったのだろう。本当に、どうして気付かなかったのか。
……って、嘆いている場合じゃない。
(ど、どうすんだよこれ!?)
脳死で適当に答えてしまっていたが。
なんか「隅々まで洗体させていただきます♡」とか、言ってたよな?
ただでさえ、こうして浴室という狭い密閉空間の中に二人きりでいるだけでもあれだというのに。
体を洗うと書いて「洗体」。言葉をそのまま読み取るのであれば、そこには変な意味など何も無く。ごく一般的に使われる健全な言葉である。
しかし、その言葉を発した主は″あの″フィオだ。
それについ先ほど、貞操の危機も味合わされたばかり。
こんな状況下で、変なことを想像するなという方が無理な話だろう。
(隅々までだなんてそんなの……そんなのッッ!!)
ごくり、と唾を飲む。
依然、両手の動きは止めることなく。
いや、むしろ気を紛らわそうと、より激しく動かしながら。
それでも尚想像してしまう情景に、次第に心臓の鼓動が加速していった。
逃げ出そうと思えば、いくらでも方法はあるのかもしれない。
厄介なのはーーーー俺の心がそれを望んでいるのか、確信が持てないことだ。
(そんなの……駄目に決まってる……よな?)
フィオに殴ってくださいだのご主人様になってくださいだの言われた時。二つ返事で断った。
その理由は単純明快で、俺にそういう性的嗜好が無いからである。
そう。あくまで行為やプレイそのものに興味が無かっただけの話で。ーーーー相手に不満があったというわけじゃない。
フィオは可愛くて、いい子で。……おっぱいも大きくて。
だからもし、歪んだ性癖に基づく変態的行為ではなく、例えば……ただ純粋に″そういうこと″を求められたとしたら。
俺は、断るのだろうか。ーーーー断れるのだろうか。ーーーーそもそも、断る必要があるのだろうか。
これから始まることが、ただ背中を流してもらう程度の普通な洗体なら。別にいい。
でも、もし。その先があるのだとしたら……
「むぅ。カイト様? そろそろ頭を洗い流してもいいんじゃないですか?」
「へっ!?」
「お身体を洗うための準備はもうできてます。こうやってカイト様のお背中を眺め続けるのもいいのですが……格好も格好ですし、そろそろ寒いです」
「……っ」
どうやら、深く考え込んでいる時間は無いらしい。
後ろから急かされ、手の動きを止める。
確かに、俺も一度は温まったはずの身体が冷え始めていた。いつまでも、こうしているわけにはいかない。
「わ、分かったよ」
呟くように言って、近くの洗面器を手に取り、蛇口から出したお湯を溜めて頭から被る。
一度では泡を洗い流せないため、何度かお湯を溜めて被っての動作を繰り返して。
やがてすぐに、完全に頭を洗い終えてしまったのだった。
「ようやく、ですね」
どうやらよほど待ち侘びていたらしい。声色から「待ってました」と言わんばかりの昂りが伝わってくる。
一体フィオは今、どんな顔をしているのだろう。……というか、どんな格好をしているのだろう。
全裸……ではないと信じたい。せめて水着か、バスタオル一枚でも身に纏っていてくれるといいな。
対し自分は全裸で、大事な息子を見られた可能性からは目を逸らしつつ。そんな切なる願いを心の中で呟きながら、無防備な背中を差し出す。
「では、失礼します♡」
「……おう」
もしかしたら、この浴室を出る時には俺は大人の階段を一歩登っているのかもしれない。
そんな……期待か不安かハッキリとしない心持ちで。
身を、委ねるように。