アビス・バザール――この街に、“正義”という言葉は存在しない。あるのは契約と対価、そして沈黙。
殺しも密輸も祈りも愛も、すべてが“等価交換”で認められるこの地は、王国の地図から外れた「世界の裂け目」に咲いた市場都市。
異界と人界、光と闇の境界線。その交差点に、ひっそりと佇む一軒の建物がある。
外観は古びた帳簿屋。くすんだ木の扉、ひび割れた看板。だが、そこにだけ刻まれた赤い薔薇の紋章が、すべてを物語っていた。
――それが、《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》。
アビス・バザールにおいて、最も恐れられ、最も信頼される闇ギルド。
王国すら手を出さないこの都市で、“最後の秩序”を握る存在だ。
ギルドの奥、受付カウンターの前に立つのは、一人の女。
アイシャ・ヴァレンツァ。
深紅のロングドレスに身を包み、漆黒の長髪を背に垂らす女は、目の前の依頼人に静かに微笑んだ。
「……契約完了よ、ミラルダ様。標的は“人間”、遺体の処理まで含めて五千グレムね」
カウンター越しに立つのは、顔を布で覆った傭兵風の男。
男は黙って頷き、契約リングを受け取り、去っていく。扉の音は重く、静かだった。
アイシャは軽く息を吐き、帳簿に依頼内容と依頼人の名を記す。
次いで、手元に残された**契約指輪(コンダクト・リング)**を持ち上げ、天井の光にかざした。
リングは銀と黒を基調にした無骨な金属製で、中央に血晶の小片が埋め込まれている。
依頼書に刻まれた名と目的、流し込まれた魔力と微量の血――それらが共鳴し、指輪は“色”を浮かび上がらせる。
黒地にわずかに赤――これは、成功率七割以下の依頼。失敗のリスクが高く、命を落とす可能性があることを意味する。
この色は、契約術式による魔導的リスク評価だ。
依頼人の覚悟、依頼内容の実現性、相手の危険度、報酬との釣り合い――すべてを魔術式が自動判定し、色へと変換する。
赤が濃いほど成功率が高く、
黒が強いほど死が近い。
灰は疑念、混色は虚偽――
色に嘘はつけない。
ギルド関係者やベテランの契約者にとって、リングの色は黙示の言葉であり、死の前触れであり、信頼のバロメーターである。
依頼者にとっては覚悟を問われる“鏡”であり、
ギルドにとっては虚偽と不信をあぶり出す“審判の目”だ。
アイシャはリングを一瞥し、カウンターの奥の木箱に収めた。
箱の中には、過去の契約者たちが残していった色と記録が整然と並んでいる。
彼女の仕事は、笑顔で命の契約を交わし、その色を、嘘なく帳簿に記すこと。
たとえ、それがどれほど暗い色であっても――
だが――それは“仮面”に過ぎない。
アイシャは《黒薔薇》の受付嬢でありながら、その実、ギルドの“主”であり、“秩序の番人”であった。
かつて王国直属の
王家の
そのとき、背後の扉が静かに開いた。
誰にも気配を感じさせない、獣のような足音。
振り返らずとも、誰が来たのか、アイシャにはわかっていた。
カウンター脇を、無言で通り過ぎる長身の男。
漆黒のロングコートの裾が床をかすめ、濃い影のようにその場を満たしていく。
「……エイデン。報告は?」
「三件、処理済み。一件は罠だった。依頼人は……処分した」
灰銀の髪を揺らしながら、男は淡々と告げる。
エイデン・バルザック。
かつては魔王軍の幹部として王国を翻弄し、人でありながら魔族に与した“裏切り者”。
終戦後は双方から討伐対象となり、数年にわたる潜伏生活を余儀なくされた。
――そして、《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》での再会。
当時すでにギルドの創設者となっていたアイシャに拾われ、初めは彼女を睨みつけるだけの亡霊のような存在だった。
だが、ある夜。
ギルド内で起きた裏切り事件で、暴走した契約違反者を彼が迷わず殺したことで、すべてが変わった。
それは秩序のためでも忠誠の証でもなかった。ただ、
**「アイシャが危機に晒された」**という理由だけで、彼は剣を振るった。
その後、アイシャは彼に言ったのだ。
「人を殺すしか居場所がないなら、正しく殺して。秩序のために、信義のために。それができるなら――ここにいていい」
それが、エイデンが“内部処理係”として《黒薔薇》に残ることになった、唯一の契約。
「やっぱり、あの貴族風の依頼人、胡散臭かったわね」
「お前が見抜いてたんなら、俺を使うまでもなかった」
「……あなたに任せるのが一番確実でしょう? だから頼んでるの」
アイシャが静かに微笑む。
エイデンは何も答えず、わずかに視線を逸らした。
その瞳の奥にあるのは、今でも赦せない過去。
そしてそれでも、アイシャの隣に立ち続けているという事実だけが、“今”のエイデンの存在理由だった。
静寂。だが、その沈黙には刃のような緊張が走っている。
――十年前。
二人は敵同士として戦場で出会い、互いを殺しきれなかった末に、《血印契約》を結んだ。
それは互いの魔力を接続し、一方が死ねばもう一方も命を落とす――“共倒れ”の縛りを課す契約だった。
背中を預けるための信頼ではなく、裏切りを不可能にするための鎖。
だが、終戦間際、アイシャはその契約を破り、エイデンを罠へと誘導した。
結果として彼は命を拾ったが、仲間を失い、彼女を信じる術も失った。
その傷は、癒えぬまま、今もなお隣に立っている。
「……まだ、俺はお前を赦していない」
「ええ。知ってるわ。でも、あなたはここにいる。私の隣にね」
彼女の言葉に、エイデンは答えなかった。
だがその沈黙の奥には、彼だけが知る“あの夜”の記憶があった。
――あの夜。十年前。
戦争の終わりが近づいていた、雨の夜。
王国と魔族の前線が崩壊し、どちらの陣営にも裏切りが溢れていた。
エイデンはその混乱の中、アイシャから密かに渡された「退路の情報」を信じた。
だがそれは、王国情報局が仕掛けた“粛清の罠”だった。
砲撃の罠に囲まれた谷へと誘導され、彼の部隊は壊滅。
自分だけが、なぜか“致命傷を逃れた”。
あの瞬間、彼は理解した――
アイシャは、自分を殺すつもりはなかった。
けれど、それでも“誰かを見捨てる”という形で、自分を選んだ。
彼は瓦礫の中、崩れた仲間の遺体に囲まれて立ち尽くしていた。
心臓が潰れるほどの怒りと、同時に、彼女を責めきれない自分がいた。
だから、彼は生きた。
彼女を裁くためでも、罰するためでもない。
「もう一度見届けるために」――それが、彼が《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》に身を置いた理由だった。
今もその傷は、癒えていない。
だが、それでも彼はここにいる。
彼女が嘘をつかず、自らの責任を背負おうとしている限りは。
そのとき――外の喧騒が止まった。
ギルドの扉が軋み、誰かが中に倒れ込む音が響く。
「……?」
アイシャが視線を向けると、床に一人の青年がうずくまっていた。
白銀の髪、金の瞳。旅装のようなボロ布を纏い、肌には古代呪印のような刺青が浮かぶ。
血の気はない。だが魔力の揺らぎが異常。
「エイデン、警戒を――」
言いかけたアイシャの言葉より早く、青年がゆっくりと瞼を開いた。
金の瞳が、まっすぐにアイシャを捉える。
その瞬間――微かに、笑った。そんな気がした。
「……やっと、会えた」
「…私を知ってるの?」
「名前、は、知らない……でも、浮かんだ。顔も、あたたかい。君は……知ってる」
その声は感情を欠いた囁き。だが、その底には、名もなき渇きのようなものが滲んでいた。
(――どうして、私を?)
アイシャの胸に、ごく短い“脈打ち”のようなざわめきが走る。
記憶にはないはずの声なのに、どこか懐かしい。 魔力の気配も、どこか既視感を孕んでいた。
(……まさか、あの研究……)
瞬間的に頭をよぎった予感を、アイシャは自分で打ち消した。
アイシャは一瞬だけ迷い、やがて静かに立ち上がる。
「この子、保護するわ」
「は?」
「これは、命令よ。記録は私が取る。《血印契約》も私が結ぶ。責任は、全部私が負う」
エイデンは数秒黙り、そして低く呟いた。
「……また、“あの時”と同じことを繰り返す気か」
「違うわ。今回は、最初から……裏切らない」
***
その夜。
ギルドの執務室に、封蝋の施された黒い書簡が届いた。差出人は――王国情報局。
宛名:アイシャ・ヴァレンツァ。
封を切ると、中にはただ一文。
> 『任務:
アイシャは書簡を見つめ、指先をわずかに震わせ――やがて、静かに握り潰した。
「あの頃と違って、今は“私の意志”で動く。――燃えなさい」
焔の魔法で燃え上がるその灰を見つめながら、囁くように呟く。
「……これは“ギルドへの挑戦”ってことで、いいのよね?」
その直後、アイシャは静かに“もう一つの火種”に向き合うことを決めた。
***