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第2話 真実は血の契約に

 ギルドに戻った後、アイシャは彼の身体に刻まれた刺青を解析した。

 それは古代王国の術式――《拘束》と《命令》。生まれではなく、“設計”された存在。

 彼は人ではない。創られた兵器――“処刑者(エグゼキューター)”。


 深夜。執務室のソファに座り、彼は無表情に窓の外を見ていた。

 その姿はあまりに静かで、あまりに人間的でなかった。


 「……あなたには、自分の名前も、過去もないの?」


 問いかけに、彼は小さく首を振る。


 「……ない。でも、君の声は……知ってた気がする」


 「私が誰なのか、わからないのに?」


 「うん。でも、安心する。君が笑うと……心が軽くなる」


 しばらく沈黙が流れたあと、アイシャは一冊の記録帳に視線を落とし、ぽつりと呟いた。


 「……記録欄、名前が空白のままじゃ困るのよね」


 その言葉に、青年がきょとんと首を傾げる。

 アイシャは苦笑しながら、羽ペンを走らせる。


 「じゃあ、“名前”をあげるわ。仮の、でも“あなたの”名前。――ナナシ」


 「……意味、は?」


 「“名無し”、つまり“名もなき者”。今はそれでいい。でも、いつか――“本当の名”を、あなた自身が見つけなさい」


 その名を与えられた青年は、ゆっくりと目を伏せ、かすかに口元を動かした。


 それが笑みだったかどうかは、わからない。

 ただ、彼の目に――初めて、“自分”というものが灯ったように見えた。



***



 アイシャのギルドは、一見平穏を装っていた。

 だがその内側では、静かに火種が燃えていた。熱を持たない焔のように、誰にも気づかれずに。


 ――ナナシ。

 記憶を失ったというその青年は、日を追うごとに《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》の中で奇妙な存在感を帯びていった。


 受付カウンターの手伝いをしながら、裏の仕事にもふらりと現れる。

 何者かの殺気を感知すると、即座に動き、無駄なく仕留める。

 まるで「殺す」という行為が呼吸のように自然だった。


  「……こいつ、戦いの本能だけで生きてるな」

 そうエイデンは低く呟いた。



***



 ある夜、ギルド近くの広場で不審者の報が入った。

 ナナシが先行し、アイシャとエイデンが後を追う。


 現場には、六人の傭兵の死体と、無傷のナナシ。

 地面には血が溢れていたが、彼の剣は鞘に収まっている。


 「……やったのか?」

 エイデンの問いに、ナナシは小さく頷いた。


 「……アイシャを、呼ばれた気がした。だから、来た。殺した。問題?」


 その声は無垢だった。だが、異常だった。

 罪悪感も葛藤もない。ただ、「そうするべきだと感じた」――それだけ。

 エイデンは眉をひそめた。命令でも、記憶でもない。

 だが、あいつは今“誰かを守るために”動いた。それが異常だと、自分でもわかっていない。


***


 ――数刻後。

 《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》ギルド本館、アイシャの私室。


 厚手のカーテンに遮られた窓の向こう、アビス・バザールの夜は喧噪に満ちている。

 だがこの部屋だけは静かだった。深紅と黒を基調にした空間。執務机とソファの間に、温かなハーブの香りが漂っている。


 ナナシはソファに座り、アイシャは向かいの椅子で紅茶を注いでいた。


 「……本当に、何も感じなかったの?」


 アイシャの声は穏やかだったが、内側に硬質な揺れがあった。


 「感じた。……君を、守らなきゃって」


 「でも、相手は六人。まだ敵と確定していなかった。あなたが動かなければ、誰も死なずに済んだかもしれない」


 「……でも、僕の中で、“脅威”だった。君に向かうものだった」


 「あなたにとって“守る”って、それだけの理由で“殺す”ことなのね」


 ナナシは少し首を傾げた。それが「わからない」という動作だと、アイシャはようやく学習していた。


 「悪いこと……だった?」


 「違う。正しいとも言えない。そういう問題じゃないのよ」


 アイシャは紅茶を飲まず、そっとカップを置く。

 そして静かに言った。


 「あなたが何者であれ、私はもう、あなたに“人としての選択肢”を教えなきゃいけない。それが、あなたを迎え入れた者としての責任」


 「……選ぶって、難しいね」


 「ええ。でも、誰かに選ばされるより、ずっといい」


 ナナシが、目を伏せた。

 その動作はどこか、罪悪感に似ていた――彼がそれを知っているとは思えなかったのに。


 アイシャが少しだけ微笑みかけようとした、そのときだった。



 ――ドンッ。

 執務室の扉が乱暴に開いた。


 「話は済んだか。そいつは、王国の兵器だ」

 入ってきたのはエイデン。

 手には一冊の黒革の資料。

 王国の極秘計画――「対魔族殲滅用個体No.9」、通称“処刑者(エグゼキューター)”。

 アイシャは資料を見ることもなく、静かに目を伏せる。


 「……ええ、もうわかってる。身体の紋様で気づいたわ。だからこそ、私が“鍵”になる。ほかに方法はない」

 エイデンはわずかに眉をひそめた。


 「ナナシは、王国にとっても処分対象だ。お前が庇えば、ギルド全体が火種になる」


 「だから、どうしろと?」


 「殺せとは言わない。だが――封じろ。お前の《血印契約》で」


 重い沈黙が落ちる。

 そして、アイシャは静かに立ち上がり、ナナシに手を差し出した。


 「ナナシ。私の言葉に、従う覚悟はある?」


 「うん。ある。君が望むなら、なんでもする」

 その応答は、もはや“忠誠”ですらなかった。信仰に近い何か。

 あるいは、心の奥に刻まれた“生きる意味”のように。

 アイシャは指輪を外し、自らの指を噛み、血を一滴――ナナシの額へ。


 「契約名:赤薔薇の誓約(ブラッド・ローズ)」

 魔法陣が走る。刻印が一瞬だけ光り、封印が強化される。

 その瞬間、彼の額に浮かぶ呪印の一部が沈黙するように光を失った。

 今や、その制御権は完全にアイシャのものとなった。


 「……これで、あなたの力の鍵は、私だけが持つわ。いい?」


 「うん。僕は……君のもの、なんだね」


 エイデンはそのやり取りを黙って見ていた。

 その瞳に宿ったのは、焦り、警戒、そして――拭えぬ嫉妬。


 「……俺は、やっぱり、あの時お前を殺すべきだったのかもしれないな」

 その言葉に、アイシャは静かに振り向く。

 微笑みはなく、ただ、真っ直ぐな眼差しで彼を見返した。


 「それでも殺さなかった。そして今、あなたはここにいる。私はその意味を……ずっと考えてた」


 エイデンは黙って視線をそらす。

 だがその心には、止められなかった思いが湧き上がっていた。

 ――十年前に交わした《血印契約》。

 それは“信頼”ではなく、“裏切れないように縛るための鎖”だった。

 一方が死ねば、もう一方も死ぬ。だから、互いに背を預けられた。

 だが、終戦直前。アイシャはその契約を“巧妙に破った”。

 彼を死地に誘導し、仲間を殺し、信頼だけを裏切った。

 契約は切れた。だからこそ、あの時、殺すことはできたはずだった。


 ――けれど、殺せなかった。

 瓦礫の中で、彼女を殺す理由よりも、「なぜ裏切ったのか」を知りたいと思ってしまった。

 あの夜に断ち切れなかった想いが、今も残っている。

 それを持たずに生まれたナナシの純粋さが――たまらなく、羨ましかった。


 「……契約ってのは、こんなにも違うものなんだな」

 エイデンの声に、アイシャが眉をひそめる。


 「何が?」


 「俺たちは、互いを縛るために契約を結んだ。けどあいつは、力の鍵を渡されて、笑ってた。あれはもう“信頼”なんだろ」


 アイシャは、ふっと小さく笑う。


 「ええ。あなたとの契約は“縛る”ためのものだった。でもナナシとの契約は、“解く”ためのものよ。彼の力を縛っていた呪いは、契約の回路を通じて今、私の魔力で“制御”されている。あの子はもう、自分を壊すために動かなくていい」


 沈黙が落ちる。

 だが今度は、それが不快なものではなかった。

 十年越しの未決着が、ようやくどこかに“着地”しようとしていた。

 エイデンはアイシャに背を向けて言う。


 「……屋上に来い。ここでは言えない」

 アイシャはその背に目を細め、わずかに頷く。


***


 夜風が吹く。

 アビス・バザールの灯が遠く、炎のように揺れている。


 「……ずっと、言わないつもりだったのか」


 エイデンが切り出す。


 「言って、何になるの?赦して欲しいとも思ってないわ」


 「赦す気はなかった。けど、今は……」


 「王国に人質を取られていたの。あなたを誘導しろと命令されて。殺させる気はなかった。最小限で、逃げられる場所を選んだ。

 でも、結局――全部、無駄だった。あの子も死んだ。私も裏切った。

 だから、私は何も言う資格なんて、ない」


 「……お前は、そうやって全部、自分で背負って、黙ってるんだな」


 「責任は、契約に値するものだもの。あの夜、私が結んだのは“信頼”じゃない。“選択”だった。だから――赦されなくていい」


 しばしの静寂。

 エイデンはアイシャの隣に立ち、街を見下ろした。


 「それでも、今ここにいる俺は、なんなんだろうな」


 「……エイデン。あなたは、私の一番古い契約。破れなかった唯一のもの」


 それは、愛とも違う。信仰とも違う。

 だが――真実だった。


***


 その夜、ギルドの外では王国の密偵が動き始めていた。

 “内部協力者”の連絡を受け、《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》の排除が正式に発令。

 そして、先陣を切るのは――かつてアイシャとエイデンを知る、“裏切り者”のギルド員だった。


 闇が、牙を剥き始めていた。



***


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