ギルドに戻った後、アイシャは彼の身体に刻まれた刺青を解析した。
それは古代王国の術式――《拘束》と《命令》。生まれではなく、“設計”された存在。
彼は人ではない。創られた兵器――“処刑者(エグゼキューター)”。
深夜。執務室のソファに座り、彼は無表情に窓の外を見ていた。
その姿はあまりに静かで、あまりに人間的でなかった。
「……あなたには、自分の名前も、過去もないの?」
問いかけに、彼は小さく首を振る。
「……ない。でも、君の声は……知ってた気がする」
「私が誰なのか、わからないのに?」
「うん。でも、安心する。君が笑うと……心が軽くなる」
しばらく沈黙が流れたあと、アイシャは一冊の記録帳に視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「……記録欄、名前が空白のままじゃ困るのよね」
その言葉に、青年がきょとんと首を傾げる。
アイシャは苦笑しながら、羽ペンを走らせる。
「じゃあ、“名前”をあげるわ。仮の、でも“あなたの”名前。――ナナシ」
「……意味、は?」
「“名無し”、つまり“名もなき者”。今はそれでいい。でも、いつか――“本当の名”を、あなた自身が見つけなさい」
その名を与えられた青年は、ゆっくりと目を伏せ、かすかに口元を動かした。
それが笑みだったかどうかは、わからない。
ただ、彼の目に――初めて、“自分”というものが灯ったように見えた。
***
アイシャのギルドは、一見平穏を装っていた。
だがその内側では、静かに火種が燃えていた。熱を持たない焔のように、誰にも気づかれずに。
――ナナシ。
記憶を失ったというその青年は、日を追うごとに《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》の中で奇妙な存在感を帯びていった。
受付カウンターの手伝いをしながら、裏の仕事にもふらりと現れる。
何者かの殺気を感知すると、即座に動き、無駄なく仕留める。
まるで「殺す」という行為が呼吸のように自然だった。
「……こいつ、戦いの本能だけで生きてるな」
そうエイデンは低く呟いた。
***
ある夜、ギルド近くの広場で不審者の報が入った。
ナナシが先行し、アイシャとエイデンが後を追う。
現場には、六人の傭兵の死体と、無傷のナナシ。
地面には血が溢れていたが、彼の剣は鞘に収まっている。
「……やったのか?」
エイデンの問いに、ナナシは小さく頷いた。
「……アイシャを、呼ばれた気がした。だから、来た。殺した。問題?」
その声は無垢だった。だが、異常だった。
罪悪感も葛藤もない。ただ、「そうするべきだと感じた」――それだけ。
エイデンは眉をひそめた。命令でも、記憶でもない。
だが、あいつは今“誰かを守るために”動いた。それが異常だと、自分でもわかっていない。
***
――数刻後。
《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》ギルド本館、アイシャの私室。
厚手のカーテンに遮られた窓の向こう、アビス・バザールの夜は喧噪に満ちている。
だがこの部屋だけは静かだった。深紅と黒を基調にした空間。執務机とソファの間に、温かなハーブの香りが漂っている。
ナナシはソファに座り、アイシャは向かいの椅子で紅茶を注いでいた。
「……本当に、何も感じなかったの?」
アイシャの声は穏やかだったが、内側に硬質な揺れがあった。
「感じた。……君を、守らなきゃって」
「でも、相手は六人。まだ敵と確定していなかった。あなたが動かなければ、誰も死なずに済んだかもしれない」
「……でも、僕の中で、“脅威”だった。君に向かうものだった」
「あなたにとって“守る”って、それだけの理由で“殺す”ことなのね」
ナナシは少し首を傾げた。それが「わからない」という動作だと、アイシャはようやく学習していた。
「悪いこと……だった?」
「違う。正しいとも言えない。そういう問題じゃないのよ」
アイシャは紅茶を飲まず、そっとカップを置く。
そして静かに言った。
「あなたが何者であれ、私はもう、あなたに“人としての選択肢”を教えなきゃいけない。それが、あなたを迎え入れた者としての責任」
「……選ぶって、難しいね」
「ええ。でも、誰かに選ばされるより、ずっといい」
ナナシが、目を伏せた。
その動作はどこか、罪悪感に似ていた――彼がそれを知っているとは思えなかったのに。
アイシャが少しだけ微笑みかけようとした、そのときだった。
――ドンッ。
執務室の扉が乱暴に開いた。
「話は済んだか。そいつは、王国の兵器だ」
入ってきたのはエイデン。
手には一冊の黒革の資料。
王国の極秘計画――「対魔族殲滅用個体No.9」、通称“処刑者(エグゼキューター)”。
アイシャは資料を見ることもなく、静かに目を伏せる。
「……ええ、もうわかってる。身体の紋様で気づいたわ。だからこそ、私が“鍵”になる。ほかに方法はない」
エイデンはわずかに眉をひそめた。
「ナナシは、王国にとっても処分対象だ。お前が庇えば、ギルド全体が火種になる」
「だから、どうしろと?」
「殺せとは言わない。だが――封じろ。お前の《血印契約》で」
重い沈黙が落ちる。
そして、アイシャは静かに立ち上がり、ナナシに手を差し出した。
「ナナシ。私の言葉に、従う覚悟はある?」
「うん。ある。君が望むなら、なんでもする」
その応答は、もはや“忠誠”ですらなかった。信仰に近い何か。
あるいは、心の奥に刻まれた“生きる意味”のように。
アイシャは指輪を外し、自らの指を噛み、血を一滴――ナナシの額へ。
「契約名:赤薔薇の誓約(ブラッド・ローズ)」
魔法陣が走る。刻印が一瞬だけ光り、封印が強化される。
その瞬間、彼の額に浮かぶ呪印の一部が沈黙するように光を失った。
今や、その制御権は完全にアイシャのものとなった。
「……これで、あなたの力の鍵は、私だけが持つわ。いい?」
「うん。僕は……君のもの、なんだね」
エイデンはそのやり取りを黙って見ていた。
その瞳に宿ったのは、焦り、警戒、そして――拭えぬ嫉妬。
「……俺は、やっぱり、あの時お前を殺すべきだったのかもしれないな」
その言葉に、アイシャは静かに振り向く。
微笑みはなく、ただ、真っ直ぐな眼差しで彼を見返した。
「それでも殺さなかった。そして今、あなたはここにいる。私はその意味を……ずっと考えてた」
エイデンは黙って視線をそらす。
だがその心には、止められなかった思いが湧き上がっていた。
――十年前に交わした《血印契約》。
それは“信頼”ではなく、“裏切れないように縛るための鎖”だった。
一方が死ねば、もう一方も死ぬ。だから、互いに背を預けられた。
だが、終戦直前。アイシャはその契約を“巧妙に破った”。
彼を死地に誘導し、仲間を殺し、信頼だけを裏切った。
契約は切れた。だからこそ、あの時、殺すことはできたはずだった。
――けれど、殺せなかった。
瓦礫の中で、彼女を殺す理由よりも、「なぜ裏切ったのか」を知りたいと思ってしまった。
あの夜に断ち切れなかった想いが、今も残っている。
それを持たずに生まれたナナシの純粋さが――たまらなく、羨ましかった。
「……契約ってのは、こんなにも違うものなんだな」
エイデンの声に、アイシャが眉をひそめる。
「何が?」
「俺たちは、互いを縛るために契約を結んだ。けどあいつは、力の鍵を渡されて、笑ってた。あれはもう“信頼”なんだろ」
アイシャは、ふっと小さく笑う。
「ええ。あなたとの契約は“縛る”ためのものだった。でもナナシとの契約は、“解く”ためのものよ。彼の力を縛っていた呪いは、契約の回路を通じて今、私の魔力で“制御”されている。あの子はもう、自分を壊すために動かなくていい」
沈黙が落ちる。
だが今度は、それが不快なものではなかった。
十年越しの未決着が、ようやくどこかに“着地”しようとしていた。
エイデンはアイシャに背を向けて言う。
「……屋上に来い。ここでは言えない」
アイシャはその背に目を細め、わずかに頷く。
***
夜風が吹く。
アビス・バザールの灯が遠く、炎のように揺れている。
「……ずっと、言わないつもりだったのか」
エイデンが切り出す。
「言って、何になるの?赦して欲しいとも思ってないわ」
「赦す気はなかった。けど、今は……」
「王国に人質を取られていたの。あなたを誘導しろと命令されて。殺させる気はなかった。最小限で、逃げられる場所を選んだ。
でも、結局――全部、無駄だった。あの子も死んだ。私も裏切った。
だから、私は何も言う資格なんて、ない」
「……お前は、そうやって全部、自分で背負って、黙ってるんだな」
「責任は、契約に値するものだもの。あの夜、私が結んだのは“信頼”じゃない。“選択”だった。だから――赦されなくていい」
しばしの静寂。
エイデンはアイシャの隣に立ち、街を見下ろした。
「それでも、今ここにいる俺は、なんなんだろうな」
「……エイデン。あなたは、私の一番古い契約。破れなかった唯一のもの」
それは、愛とも違う。信仰とも違う。
だが――真実だった。
***
その夜、ギルドの外では王国の密偵が動き始めていた。
“内部協力者”の連絡を受け、《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》の排除が正式に発令。
そして、先陣を切るのは――かつてアイシャとエイデンを知る、“裏切り者”のギルド員だった。
闇が、牙を剥き始めていた。
***