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第3話 裏切り者の市場

 アビス・バザールの夜は、ふだんから騒がしい。

 だがその晩は、喧騒の裏で**「何かが動き始めた」**という不穏な空気が、街の路地裏に広がっていた。


 アイシャのギルドに、一通の匿名報告が届いた。

 差出人不明。内容は「王国の密偵が、ギルド内部に潜入済み」というもの。


 その報せを受けたアイシャは、エイデンを呼び、夜のギルドに集まった幹部数名に目を走らせた。


 「……内部協力者、ですって。これだから大口の依頼は面倒ね」


 「情報の真偽は?」


 「今から調べるわ。手っ取り早くて、効果的な方法で」


 その“方法”とは――《血印契約》を一人ずつ試すこと。

 拒絶反応を示した者がいれば、その時点で契約破棄者=裏切り者と見なす。

 ギルド内にはざわめきが走った。だが誰も逆らえない。

 アイシャが微笑んでそう言った時点で、それは命令だった。

 表向きは受付嬢。だがその実態は――このギルドを動かす“契約の主(マスター)”。

 “黒薔薇”の秩序は、彼女の手のひらの上にある。

 ところが、そのとき。

 検査の最中、ナナシの様子が異変を見せた。

 額の刺青がうっすらと赤く発光し、彼の瞳が金から淡い紫へと変化する。

 その光景にエイデンがすぐに反応する。


 「離れろ、アイシャ!」


 だがすでに遅かった。ナナシの身体が淡く光り、空間を切り裂くような“目に見えぬ刃”が周囲を薙いだ。

 椅子が砕け、天井が裂け、ギルド員の一人が即死。


 「ナナシッ! 落ち着いて!」

 アイシャが叫ぶが、彼の瞳にはもはや“自分”の意思はなかった。


 ただ、“命令”に従う兵器のそれ――紫に染まった刃の視線。

 アイシャの隣で、エイデンが低く吐き捨てる。


 「……契約術式が引き金か。外からの干渉に反応したな」


 アイシャは目を細め、すぐに理解する。


 「……私との契約赤薔薇は、彼の内側から術式に触れた。穏やかに、鍵をかける形だった。でも今は違う。全方向から“疑い”の魔力を突き刺してる。彼にとっては――“攻撃”と同じ」


 「つまり、防衛反応ってわけだ。王国が仕込んだ自動起動。……まったく、笑えねえ兵器だ」


 ナナシの顔は無表情。だがその刃は、容赦なくアイシャに向けられていた。

 次の瞬間。黒い影がナナシの前に立ちはだかる。

 エイデンだった。


 「てめぇ……アイシャに手ぇ出す気かよ」


 その拳に魔力が集束し、音を割るような一撃がナナシの顔面を捉えた。

 空間が歪み、ナナシの身体は壁まで吹き飛ぶ。それでも彼は即座に立ち上がる。


 「目を覚ませ、ナナシ!」


 「……殺す。君を、殺せば……」


 その言葉に、エイデンの表情が変わる。


 「こいつ……“遠隔命令”を受けてやがる」


 ――そのとき、アイシャは震える指先で、自らの胸元に手を当てた。

 皮膚に刻まれた血の契印を、爪で引き裂く。

 焼けるような痛みが走る。

 それでも、ためらいはなかった。

 これは《紅蓮の抱擁(インフェルノ・エンブレイス)》――

 契約者自身の命と魔力を代価に、“対象の術式そのもの”に干渉し、強制停止させる高位契約魔術。

 代償は大きい。けれど、それでも――今、止めなければ。


 「契約名――《紅蓮の抱擁(インフェルノ・エンブレイス)》。私の名において、命じる――ここに眠れ」


 空気が震え、血の香りが満ちる。

 アイシャの胸からあふれた魔力が契印を媒介に奔流となり、ナナシを包み込んだ。

 魔法陣が展開し、ナナシの全身を呑み込む。

 赤い刺青が一瞬だけ焼かれるように光り、そして――静かに沈黙した。

 彼の動きが止まり、力が抜けるようにその身が崩れ落ちる。


 アイシャは駆け寄り、そっと抱き起こした。

 ナナシの瞳が、わずかに潤んでいた。


 「……ごめん……アイシャ……僕……こわくて……。自分が、自分じゃないみたいで……こわかった……」


 その声はかすれ、幼い子供のようだった。

 兵器でも、処刑者でもない――“名前を持ったひとりの存在”の声だった。

  ナナシの動きが止まり、崩れるように床に沈んだ。

 アイシャが彼を抱き起こし、静かに囁く。


 「……私はあなたを兵器として迎えたわけじゃない。――あなたは“私の選んだ人間”よ」


 その場に、短い沈黙が訪れる。

 誰もが暴走の余波に息を呑み、再び動けないでいた。


 ――その数分後。ギルドの地下から重い足音が響く。

 現れたのはエイデンだった。

 その腕に引きずられていたのは、血まみれの男。服は黒装束、顔には複数の裂傷。

 ギルド員の一人――かつてアイシャの副官を務めていた男、ゼイラン・グリード。


 「こいつが裏切り者だ」


 エイデンが床に男を叩きつける。


 「ナナシが暴れた時、こいつの契約反応だけが異常だった。しかも、騒ぎの最中に地下へ逃げようとしてやがった」


  アイシャが目を細める。


 「……ゼイラン。どうして?」

 男は床を這いながら、嗤うように顔を上げた。


 「“信頼”に報酬はない。だが“裏切り”には報奨金が出るんだよ、アイシャ様。王国はね、俺みたいなのを欲しがってたんだよ。契約構造の鍵を知ってる、元・副官をな」


 アイシャは感情を見せずに告げた。


 「処刑の手配を。形式は《誓約違反による公開裁定》。ギルドの信用のために」


 エイデンは黙って男を引きずり返しながら、呟く。


 「こういう奴がいるから……俺は処理係を辞められない」


***


 その夜、ギルド中庭の処刑台にて、ゼイランは火刑に処された。

 焔が夜空を染め、乾いた音と共に裏切り者を呑み込んでいく。

 その焔を見届けながら、エイデンがぽつりと呟いた。


 「……こいつを処分するのに、俺を使わなかったのは?」


 アイシャは横目で彼を見て、静かに――けれど、どこか皮肉げに笑った。


 「あなたがあの焔に立つ姿を見るのは……私には、少し惜しいから」


 エイデンは小さく眉を上げて、肩をすくめる。


 「処刑人として、じゃなくて……“失うには惜しい”って意味か?」


 それが冗談か本音か、彼にも判断はつかなかった。

 けれど、たしかに胸の奥に小さな熱が灯るのを感じた。


 「お前は相変わらず、俺の心の隙間に入り込むのが上手い」


 「なら、そこに住み着いてもいいかしら?」


 「……さあな。覚悟があるなら、来てみろ」


 視線が交わり、すれ違うようで、重なるような、曖昧な距離。

 互いの想いは明言されることなく、ただ静かにそこに在った。

 そんな二人の隣で、ナナシが静かに目を覚まし、ぽつりと口を開いた。


 「僕、また……君の役に立てる?」


 アイシャはそっと彼に手を伸ばし、柔らかく微笑んだ。


 「ええ。立ってちょうだい、ナナシ。次は――三人で、戦う番よ」


 王国の軍靴が、ついにアビス・バザールの外れまで迫っていた。




***


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