アビス・バザールの夜は、ふだんから騒がしい。
だがその晩は、喧騒の裏で**「何かが動き始めた」**という不穏な空気が、街の路地裏に広がっていた。
アイシャのギルドに、一通の匿名報告が届いた。
差出人不明。内容は「王国の密偵が、ギルド内部に潜入済み」というもの。
その報せを受けたアイシャは、エイデンを呼び、夜のギルドに集まった幹部数名に目を走らせた。
「……内部協力者、ですって。これだから大口の依頼は面倒ね」
「情報の真偽は?」
「今から調べるわ。手っ取り早くて、効果的な方法で」
その“方法”とは――《血印契約》を一人ずつ試すこと。
拒絶反応を示した者がいれば、その時点で契約破棄者=裏切り者と見なす。
ギルド内にはざわめきが走った。だが誰も逆らえない。
アイシャが微笑んでそう言った時点で、それは命令だった。
表向きは受付嬢。だがその実態は――このギルドを動かす“契約の主(マスター)”。
“黒薔薇”の秩序は、彼女の手のひらの上にある。
ところが、そのとき。
検査の最中、ナナシの様子が異変を見せた。
額の刺青がうっすらと赤く発光し、彼の瞳が金から淡い紫へと変化する。
その光景にエイデンがすぐに反応する。
「離れろ、アイシャ!」
だがすでに遅かった。ナナシの身体が淡く光り、空間を切り裂くような“目に見えぬ刃”が周囲を薙いだ。
椅子が砕け、天井が裂け、ギルド員の一人が即死。
「ナナシッ! 落ち着いて!」
アイシャが叫ぶが、彼の瞳にはもはや“自分”の意思はなかった。
ただ、“命令”に従う兵器のそれ――紫に染まった刃の視線。
アイシャの隣で、エイデンが低く吐き捨てる。
「……契約術式が引き金か。外からの干渉に反応したな」
アイシャは目を細め、すぐに理解する。
「……私との
「つまり、防衛反応ってわけだ。王国が仕込んだ自動起動。……まったく、笑えねえ兵器だ」
ナナシの顔は無表情。だがその刃は、容赦なくアイシャに向けられていた。
次の瞬間。黒い影がナナシの前に立ちはだかる。
エイデンだった。
「てめぇ……アイシャに手ぇ出す気かよ」
その拳に魔力が集束し、音を割るような一撃がナナシの顔面を捉えた。
空間が歪み、ナナシの身体は壁まで吹き飛ぶ。それでも彼は即座に立ち上がる。
「目を覚ませ、ナナシ!」
「……殺す。君を、殺せば……」
その言葉に、エイデンの表情が変わる。
「こいつ……“遠隔命令”を受けてやがる」
――そのとき、アイシャは震える指先で、自らの胸元に手を当てた。
皮膚に刻まれた血の契印を、爪で引き裂く。
焼けるような痛みが走る。
それでも、ためらいはなかった。
これは《紅蓮の抱擁(インフェルノ・エンブレイス)》――
契約者自身の命と魔力を代価に、“対象の術式そのもの”に干渉し、強制停止させる高位契約魔術。
代償は大きい。けれど、それでも――今、止めなければ。
「契約名――《紅蓮の抱擁(インフェルノ・エンブレイス)》。私の名において、命じる――ここに眠れ」
空気が震え、血の香りが満ちる。
アイシャの胸からあふれた魔力が契印を媒介に奔流となり、ナナシを包み込んだ。
魔法陣が展開し、ナナシの全身を呑み込む。
赤い刺青が一瞬だけ焼かれるように光り、そして――静かに沈黙した。
彼の動きが止まり、力が抜けるようにその身が崩れ落ちる。
アイシャは駆け寄り、そっと抱き起こした。
ナナシの瞳が、わずかに潤んでいた。
「……ごめん……アイシャ……僕……こわくて……。自分が、自分じゃないみたいで……こわかった……」
その声はかすれ、幼い子供のようだった。
兵器でも、処刑者でもない――“名前を持ったひとりの存在”の声だった。
ナナシの動きが止まり、崩れるように床に沈んだ。
アイシャが彼を抱き起こし、静かに囁く。
「……私はあなたを兵器として迎えたわけじゃない。――あなたは“私の選んだ人間”よ」
その場に、短い沈黙が訪れる。
誰もが暴走の余波に息を呑み、再び動けないでいた。
――その数分後。ギルドの地下から重い足音が響く。
現れたのはエイデンだった。
その腕に引きずられていたのは、血まみれの男。服は黒装束、顔には複数の裂傷。
ギルド員の一人――かつてアイシャの副官を務めていた男、ゼイラン・グリード。
「こいつが裏切り者だ」
エイデンが床に男を叩きつける。
「ナナシが暴れた時、こいつの契約反応だけが異常だった。しかも、騒ぎの最中に地下へ逃げようとしてやがった」
アイシャが目を細める。
「……ゼイラン。どうして?」
男は床を這いながら、嗤うように顔を上げた。
「“信頼”に報酬はない。だが“裏切り”には報奨金が出るんだよ、アイシャ様。王国はね、俺みたいなのを欲しがってたんだよ。契約構造の鍵を知ってる、元・副官をな」
アイシャは感情を見せずに告げた。
「処刑の手配を。形式は《誓約違反による公開裁定》。ギルドの信用のために」
エイデンは黙って男を引きずり返しながら、呟く。
「こういう奴がいるから……俺は処理係を辞められない」
***
その夜、ギルド中庭の処刑台にて、ゼイランは火刑に処された。
焔が夜空を染め、乾いた音と共に裏切り者を呑み込んでいく。
その焔を見届けながら、エイデンがぽつりと呟いた。
「……こいつを処分するのに、俺を使わなかったのは?」
アイシャは横目で彼を見て、静かに――けれど、どこか皮肉げに笑った。
「あなたがあの焔に立つ姿を見るのは……私には、少し惜しいから」
エイデンは小さく眉を上げて、肩をすくめる。
「処刑人として、じゃなくて……“失うには惜しい”って意味か?」
それが冗談か本音か、彼にも判断はつかなかった。
けれど、たしかに胸の奥に小さな熱が灯るのを感じた。
「お前は相変わらず、俺の心の隙間に入り込むのが上手い」
「なら、そこに住み着いてもいいかしら?」
「……さあな。覚悟があるなら、来てみろ」
視線が交わり、すれ違うようで、重なるような、曖昧な距離。
互いの想いは明言されることなく、ただ静かにそこに在った。
そんな二人の隣で、ナナシが静かに目を覚まし、ぽつりと口を開いた。
「僕、また……君の役に立てる?」
アイシャはそっと彼に手を伸ばし、柔らかく微笑んだ。
「ええ。立ってちょうだい、ナナシ。次は――三人で、戦う番よ」
王国の軍靴が、ついにアビス・バザールの外れまで迫っていた。
***