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第4話 黒薔薇に誓う

 開戦の数時間前。

 ギルド地下の監視室に、囚われたひとりの男がいた。

 王国情報局の特使、《セラス・クローデル》。

 元・紅蓮院の高位魔導士にして、アイシャの直属の上司だった男。


 「……アイシャ・ヴァレンツァ。君も堕ちたものだな。まさか“あれ”を抱えて、ギルドの女王とは」


 セラスの視線は、隣に立つナナシへと向けられていた。

 ナナシは無表情のまま、その男を見下ろしていた。


 「“あれ”? 彼のこと?」


 「忘れたのか? No.9――《アーキ=ヴァレンツァ》。君の名を与えられた兵器だ。君の提出した血印構造、記憶因子、魔力残響データ――すべてが基盤に使われた。その結果、生まれたのが“彼”だよ」


 ナナシの体が、わずかに震えた。

 だが、それは怒りか、困惑か、誰にもわからなかった。


 「……君の血、で……僕が?」


 アイシャは沈黙のまま、数秒間目を閉じた。

 そして、ゆっくりと答える。


 「私は理論を提供した。戦争を止めるための契約魔法の応用技術として。でも――生体応用の許可はしていない。彼らは、私の背後でそれを兵器に変えたのよ」


 「なら、責任はないと?」

 セラスの嗤うような声。

 だが、アイシャはかすかに首を振る。


 「いいえ。だからこそ、私は“ナナシ”を迎え入れたの。それが彼の始まりだったとしても――“今の彼”を決めるのは、私じゃない。彼自身よ」


 沈黙。

 ナナシが、自分の手のひらを見つめる。


 「じゃあ……僕が、君を知ってたのは……生まれる前に、君の記憶が混じってたから……?」


 「ええ。おそらく“本能”に刻まれていたの。私の声、姿、名。それが安心の鍵になっていた。でも、それは記憶じゃない。“始まりの刻印”よ」


 ナナシは、ほんのわずかに笑った。


 「そっか。じゃあ……“始まり”が君だったってことは……やっぱり、間違ってなかったんだ」

 その言葉に、アイシャも微かに微笑みを返した。


 セラスは肩をすくめる。


 「兵器が笑う時代か……くだらんな」


 「もう口を開かなくていいわ。あとは、契約に従って裁かれるだけ」

 エイデンが背後から現れ、セラスを無言で連行していく。


 こうして、ナナシの“出生の謎”は明かされ、

 彼自身が「自分の始まり」を受け止める時が来た。

 ――今、彼はもう「ただの兵器」ではない。

 これからは、“誰かの声に従うだけの存在”ではなく、自分の意思で立ち、自分の戦いを選ぶ存在となったのだ。


 そして夜が明け、戦が始まる――



 「……来たわね」


 ギルド塔の最上階、窓から外を見下ろしながら、アイシャは囁く。

 その横で、エイデンは無言で剣を磨き、ナナシは新たな決意を纏うようにフードを深く被った。


 「十年前、俺たちが命を賭けて逃げ出した王国に、今度は“迎え撃つ”側か。皮肉だな」


 「あなたは、逃げたんじゃなくて“残った”のよ。私を、守るために」


 「……そうだったか?」


 「そうよ。私は忘れてない」


 アイシャは微笑む。その瞳にはもう迷いがなかった。


 同時刻、ギルド内では迎撃準備が完了していた。

 アイシャは執務台に置かれた《契約書》を指先で撫でる。


> ■依頼人:アイシャ・ヴァレンツァ

■対象:王国軍特殊部隊“白獅子隊”の完全排除

■報酬:黒薔薇の誇り

■備考:執行者・自ら




 「では――契約開始」



***


 その夜、アビス・バザールの空は、静かに緊張の色に染まっていた。


 街の外縁にそびえる塔――それが、《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》本拠。

 混沌の都市のなかでも、特別に“触れてはならない”空気を纏った場所。

 だが今、その外壁を遠巻きに、静かに包囲する黒き影があった。


 王国情報局からの“排除命令”を受け、王国軍特殊部隊――《白獅子隊》は密かに侵攻を進め、ついにギルドの外周まで到達し、攻撃準備を完了させていた。


 第一波が来たのは、午前0時ちょうどだった。

 王国の精鋭部隊は対魔術障壁と重装備をまとい、《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》本拠を四方から包囲する。

 火炎と聖光の魔法が一斉に放たれ、ギルドの正面扉が轟音と共に吹き飛んだ。

 ――だが、そこにいたのは。

 静かに受付カウンターの奥に座る、一人の“受付嬢”。

 深紅のドレス、丁寧に整えられた漆黒の髪、微笑を湛えた涼やかな目元。

 机上には帳簿、羽ペン、契約用リング――いつもと変わらぬ光景。

 だが、誰も動けなかった。

 彼女のただの一言が、空間そのものの密度を変えた。


 「ようこそ、我がギルドへ。……でも、お引き取りを勧めるわ。命が惜しいなら」

 言葉は穏やかで、美しい受付嬢のそれだった。

 けれどその声音は、千の契約を取り交わし、万の死を見届けてきた者のもの。

 次の瞬間――空間が裏返る。

 《幻影写し(ファンタズマ・リフレクト)》が発動。

 ギルド全体が、瞬時に異空間の構造へと変貌する。

 壁が歪み、天井が消え、床の下に“何か”がうごめく。

 兵たちは反射的に魔力障壁を張るが、それすら意味を持たない。

 彼女の背後に、無数の“血契の書類”が舞い上がった。

 それは、過去にこの場で命を契約に差し出した者たちの名だ。


 混乱する兵たちの中、最初の血が流れた。

 エイデンの黒剣が、一人目の隊長の首を刎ねる。


 「これが俺のやり方だ。文句は死んでから言え」


 そして――ナナシ。

 額の刺青が完全に赤く染まり、彼の姿がまるで幽鬼のように速くなる。

 空間を裂く刃が、見えぬまま敵を切り裂き、戦場が沈黙する。


 「僕、今は君のために、斬ってる」


 「ええ、そのまま――一緒に生きて、ナナシ」


 ギルドの中庭は、血と焔の海。

 だが、その中心に立つアイシャは、紅いドレスの裾をなびかせ、傷一つない。


 「王国に告ぐ――ここは“秩序”の地。力で奪うことは、赦されない」


 そして、最後の敵が倒れたとき。

 月の光が差し、アビス・バザールの住人たちが、ギルドの周囲を取り囲んでいた。

 誰も手出ししない。だが、その視線には敬意と畏れが混じっていた。


 「これが……あなたたちの“ギルド”か」


 王国軍の副官が地に伏しながら、息を絞るように問う。


 「違うわ」


 アイシャはゆっくりと答える。


 「これは、“私たち”の家よ。奪わせないわ」



 ――戦は終わった。

 王国は、この混沌の地を“不可侵領域”として認定。

 《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》は今後もアビス・バザールの中で、必要悪として生き続けることを許された。


***


 数日後、アイシャの机の上に、新たな契約書が置かれていた。

 書式は私的なもの。封印は魔力ではなく、指で押された黒い印のみ。


■依頼人:エイデン・バルザック

■対象:アイシャ・ヴァレンツァ

■内容:君を離さないこと

■報酬:すべて


 アイシャはふっと笑い、そっと呟いた。


 「報酬:すべて、ね……相変わらず、欲張りなんだから」


 アイシャは筆を取り、サインする。


 契約、承認。


 その夜、ギルドの屋上で、エイデンとアイシャは肩を並べて座っていた。

 月明かりが、静かに二人を照らす。


 「なあ、あの契約書、本気だったのか?」


 「ええ。私は書類に嘘はつかない主義よ」


 「……じゃあ、これから俺たちはどうなる?」


 エイデンが、ほんのわずかに身体を寄せ――

 唇が彼女に触れそうになった、その瞬間だった。

 階段の影から、ぬっと現れる影。


 「アイシャ。僕も、いていい?」


 ナナシだった。大真面目な顔で、アイシャの隣にすとんと座る。

 エイデンがぴくりと動きを止め、顔をしかめた。


 「……今、いちばん邪魔してほしくなかった奴が来たな」


 「ふふ、仕方ないわね。……三人で、もうしばらくこの仮面の街に住みましょうか」


 アイシャは両手を広げ、二人を抱き寄せるように腕を回す。

 エイデンは小さくため息をつきながらも、その手を拒まなかった。


 「……まあ、三人なら退屈はしねぇだろ」


***


 翌日、受付カウンターにはいつもの帳簿と羽ペンが並んでいた。

 街の住人が扉を叩き、依頼書をそっと差し出す。

 そこにいたのは、変わらぬ笑顔の受付嬢――アイシャ・ヴァレンツァ。



 黒薔薇は、今宵も静かに咲き続ける――

 街の片隅の、たったひとつのカウンターから。

 微笑みを絶やさぬ受付嬢が、“世界の裏”を今日も受け付けている。




【完】


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