開戦の数時間前。
ギルド地下の監視室に、囚われたひとりの男がいた。
王国情報局の特使、《セラス・クローデル》。
元・紅蓮院の高位魔導士にして、アイシャの直属の上司だった男。
「……アイシャ・ヴァレンツァ。君も堕ちたものだな。まさか“あれ”を抱えて、ギルドの女王とは」
セラスの視線は、隣に立つナナシへと向けられていた。
ナナシは無表情のまま、その男を見下ろしていた。
「“あれ”? 彼のこと?」
「忘れたのか? No.9――《アーキ=ヴァレンツァ》。君の名を与えられた兵器だ。君の提出した血印構造、記憶因子、魔力残響データ――すべてが基盤に使われた。その結果、生まれたのが“彼”だよ」
ナナシの体が、わずかに震えた。
だが、それは怒りか、困惑か、誰にもわからなかった。
「……君の血、で……僕が?」
アイシャは沈黙のまま、数秒間目を閉じた。
そして、ゆっくりと答える。
「私は理論を提供した。戦争を止めるための契約魔法の応用技術として。でも――生体応用の許可はしていない。彼らは、私の背後でそれを兵器に変えたのよ」
「なら、責任はないと?」
セラスの嗤うような声。
だが、アイシャはかすかに首を振る。
「いいえ。だからこそ、私は“ナナシ”を迎え入れたの。それが彼の始まりだったとしても――“今の彼”を決めるのは、私じゃない。彼自身よ」
沈黙。
ナナシが、自分の手のひらを見つめる。
「じゃあ……僕が、君を知ってたのは……生まれる前に、君の記憶が混じってたから……?」
「ええ。おそらく“本能”に刻まれていたの。私の声、姿、名。それが安心の鍵になっていた。でも、それは記憶じゃない。“始まりの刻印”よ」
ナナシは、ほんのわずかに笑った。
「そっか。じゃあ……“始まり”が君だったってことは……やっぱり、間違ってなかったんだ」
その言葉に、アイシャも微かに微笑みを返した。
セラスは肩をすくめる。
「兵器が笑う時代か……くだらんな」
「もう口を開かなくていいわ。あとは、契約に従って裁かれるだけ」
エイデンが背後から現れ、セラスを無言で連行していく。
こうして、ナナシの“出生の謎”は明かされ、
彼自身が「自分の始まり」を受け止める時が来た。
――今、彼はもう「ただの兵器」ではない。
これからは、“誰かの声に従うだけの存在”ではなく、自分の意思で立ち、自分の戦いを選ぶ存在となったのだ。
そして夜が明け、戦が始まる――
「……来たわね」
ギルド塔の最上階、窓から外を見下ろしながら、アイシャは囁く。
その横で、エイデンは無言で剣を磨き、ナナシは新たな決意を纏うようにフードを深く被った。
「十年前、俺たちが命を賭けて逃げ出した王国に、今度は“迎え撃つ”側か。皮肉だな」
「あなたは、逃げたんじゃなくて“残った”のよ。私を、守るために」
「……そうだったか?」
「そうよ。私は忘れてない」
アイシャは微笑む。その瞳にはもう迷いがなかった。
同時刻、ギルド内では迎撃準備が完了していた。
アイシャは執務台に置かれた《契約書》を指先で撫でる。
> ■依頼人:アイシャ・ヴァレンツァ
■対象:王国軍特殊部隊“白獅子隊”の完全排除
■報酬:黒薔薇の誇り
■備考:執行者・自ら
「では――契約開始」
***
その夜、アビス・バザールの空は、静かに緊張の色に染まっていた。
街の外縁にそびえる塔――それが、《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》本拠。
混沌の都市のなかでも、特別に“触れてはならない”空気を纏った場所。
だが今、その外壁を遠巻きに、静かに包囲する黒き影があった。
王国情報局からの“排除命令”を受け、王国軍特殊部隊――《白獅子隊》は密かに侵攻を進め、ついにギルドの外周まで到達し、攻撃準備を完了させていた。
第一波が来たのは、午前0時ちょうどだった。
王国の精鋭部隊は対魔術障壁と重装備をまとい、《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》本拠を四方から包囲する。
火炎と聖光の魔法が一斉に放たれ、ギルドの正面扉が轟音と共に吹き飛んだ。
――だが、そこにいたのは。
静かに受付カウンターの奥に座る、一人の“受付嬢”。
深紅のドレス、丁寧に整えられた漆黒の髪、微笑を湛えた涼やかな目元。
机上には帳簿、羽ペン、契約用リング――いつもと変わらぬ光景。
だが、誰も動けなかった。
彼女のただの一言が、空間そのものの密度を変えた。
「ようこそ、我がギルドへ。……でも、お引き取りを勧めるわ。命が惜しいなら」
言葉は穏やかで、美しい受付嬢のそれだった。
けれどその声音は、千の契約を取り交わし、万の死を見届けてきた者のもの。
次の瞬間――空間が裏返る。
《幻影写し(ファンタズマ・リフレクト)》が発動。
ギルド全体が、瞬時に異空間の構造へと変貌する。
壁が歪み、天井が消え、床の下に“何か”がうごめく。
兵たちは反射的に魔力障壁を張るが、それすら意味を持たない。
彼女の背後に、無数の“血契の書類”が舞い上がった。
それは、過去にこの場で命を契約に差し出した者たちの名だ。
混乱する兵たちの中、最初の血が流れた。
エイデンの黒剣が、一人目の隊長の首を刎ねる。
「これが俺のやり方だ。文句は死んでから言え」
そして――ナナシ。
額の刺青が完全に赤く染まり、彼の姿がまるで幽鬼のように速くなる。
空間を裂く刃が、見えぬまま敵を切り裂き、戦場が沈黙する。
「僕、今は君のために、斬ってる」
「ええ、そのまま――一緒に生きて、ナナシ」
ギルドの中庭は、血と焔の海。
だが、その中心に立つアイシャは、紅いドレスの裾をなびかせ、傷一つない。
「王国に告ぐ――ここは“秩序”の地。力で奪うことは、赦されない」
そして、最後の敵が倒れたとき。
月の光が差し、アビス・バザールの住人たちが、ギルドの周囲を取り囲んでいた。
誰も手出ししない。だが、その視線には敬意と畏れが混じっていた。
「これが……あなたたちの“ギルド”か」
王国軍の副官が地に伏しながら、息を絞るように問う。
「違うわ」
アイシャはゆっくりと答える。
「これは、“私たち”の家よ。奪わせないわ」
――戦は終わった。
王国は、この混沌の地を“不可侵領域”として認定。
《黒薔薇(ルージュ・ノワール)》は今後もアビス・バザールの中で、必要悪として生き続けることを許された。
***
数日後、アイシャの机の上に、新たな契約書が置かれていた。
書式は私的なもの。封印は魔力ではなく、指で押された黒い印のみ。
■依頼人:エイデン・バルザック
■対象:アイシャ・ヴァレンツァ
■内容:君を離さないこと
■報酬:すべて
アイシャはふっと笑い、そっと呟いた。
「報酬:すべて、ね……相変わらず、欲張りなんだから」
アイシャは筆を取り、サインする。
契約、承認。
その夜、ギルドの屋上で、エイデンとアイシャは肩を並べて座っていた。
月明かりが、静かに二人を照らす。
「なあ、あの契約書、本気だったのか?」
「ええ。私は書類に嘘はつかない主義よ」
「……じゃあ、これから俺たちはどうなる?」
エイデンが、ほんのわずかに身体を寄せ――
唇が彼女に触れそうになった、その瞬間だった。
階段の影から、ぬっと現れる影。
「アイシャ。僕も、いていい?」
ナナシだった。大真面目な顔で、アイシャの隣にすとんと座る。
エイデンがぴくりと動きを止め、顔をしかめた。
「……今、いちばん邪魔してほしくなかった奴が来たな」
「ふふ、仕方ないわね。……三人で、もうしばらくこの仮面の街に住みましょうか」
アイシャは両手を広げ、二人を抱き寄せるように腕を回す。
エイデンは小さくため息をつきながらも、その手を拒まなかった。
「……まあ、三人なら退屈はしねぇだろ」
***
翌日、受付カウンターにはいつもの帳簿と羽ペンが並んでいた。
街の住人が扉を叩き、依頼書をそっと差し出す。
そこにいたのは、変わらぬ笑顔の受付嬢――アイシャ・ヴァレンツァ。
黒薔薇は、今宵も静かに咲き続ける――
街の片隅の、たったひとつのカウンターから。
微笑みを絶やさぬ受付嬢が、“世界の裏”を今日も受け付けている。
【完】