それから毎日、多賀一郎は岡本の胡蝶と会った。密かに捨てずにいた帳面の裏に描いた絵も見せると、少女は「すごい!すごい!」と賞賛した。その表情には忖度や嘘はない。
藩の侍医である多賀白庵は毎朝、助手を務める妻と、案内役の庄屋喜左衛門とともに城下に行き、診察をしている。ほとんど領地に不在の城主石川憲之から「しっかりと慰撫するよう」と命じられ、十四日間の逗留のうち十二日を充て、城下の武家や有力商人らのもとを回っているのだ。
日に日に、逗留先の喜左衛門宅にはお礼の菓子が山と積まれ、間もなく一郎は、胡蝶だけでなく、胡蝶をからかっていた童たちも招くようになる。
一郎はすぐに、童たちが胡蝶をからかっていたのが、自分が胡蝶に対する思いと「同じ」ゆえの子供らしい残酷さの発露だったことを理解する。
縁側で童たちに取り囲まれながら、一郎は半紙に筆をふるい、庭の大きな梅の老木を描く。
それを胡蝶が「この根の張り方が狩野永徳みたい」「枝のうねりの大胆さは狩野山楽」などと、一つ一つ読み解いていくと、童たちから「すげーっ」と尊敬の声があがる。一郎は笑いがこみ上げてくるのを必死で押さえながら、この上ない喜びを感じて筆をふるう。
「狩野派か」
父と同じ医師の道しか考えていなかった一郎の胸に消すことのできない炎が灯される。
◇
その夜、一郎がすでに寝たあとに、白庵と妻の里が帰ってくる。喜左衛門は別の家で寝泊まりしている。
白庵は「フーッ」と畳に腰を下ろすと、里は「お疲れ様です。お酒を用意しますね」とそのまま土間の奥に向かおうとする。
白庵はそれを制して「構うな、お前も疲れているだろう。まずは座って、二人でこのたくさんの菓子をつまもうや」と優しく言う。
里は「ありがとうございます」と言って、山盛りの菓子の一つを手にして口にする。
「ところで旦那さま?」と聞くと、白庵は「一郎のことか?」と答え、妻はうなずく。
里は、「一郎は近所の子どもたちととても仲良くしているようで、安心しておりますが…」と言うと、夫は「が?」と重ねる。
「その中には女の子もいるようですけど、よろしくて?」と同意を求めるように目を細める。
白庵は「ははは」と笑って、「十年前、旧領の近江の
「いたい、いたいぞ」と大げさに声を出した白庵は、「まぁ、一郎はまだ八つ。運命の人と出会うにはちと早いかもしれん」と、スースーと寝息を立てる息子を見やる。