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第6話 狩野派宗家と画塾

 江戸城の西側の麹町に旗本たちの屋敷が連なる。その一つに狩野派宗家の屋敷もある。


 二十畳の作業用の広間には、制作途中の障壁画や巻物が掛けられている。床には参照用の漢詩や和歌の古典籍が乱雑に開かれ、窓から吹き込んできた晩春の風が頁をめくる。


 一番大きな障壁画を前に多賀一郎が細筆で慎重に緻密な絵を描いている。江戸城に収める花鳥風月画の蝶の部分だ。


 後ろから宗家の狩野安信やすのぶが「一郎、いや朝湖ちょうこよ」と呼ぶ。一郎はフーッと息を吐いてそっと筆を置くと振り返り、「安信師匠、ここでは一郎のままで結構ですよ。なんか気恥ずかしくて」と照れ笑いをする。


 安信は絵に顔を近づけ、「この蝶、実に見事。まるで生きているようじゃ」と言ってから、絵の検分を始める。


 「しかし、この地面の蝶はなんとも。蟷螂かまきりに食べられておるところではないか」と少し驚く。


 一郎は「お城に収める絵に、やっぱりまずかったでしょうか」と聞く。


 安信は「まぁ、お偉い方は、こんな細かいところをご覧にはならんさ」と笑うと、一郎は「ありがとうございます」と十九歳の若者らしく爽やかに頭を下げる。


 安信はふと真面目な顔をして、「最近、俳諧師の松尾芭蕉と仲が良いらしいな」と言う。


 一郎は酔っぱらってくだを巻く芭蕉を思い出し、「それもまずかったでしょうか?」と不安そうに尋ねる。


 安信は「いやいや、それも良いことじゃ。狩野派も武家相手だけでは、多くの弟子たちを食わせてやれん。成長著しい商人たちとも繋がりは重要じゃ。俳諧の世界には食い込んでおく必要がある」と言う。


 一郎は狩野派という権威でありながら、常に世相を見据えた宗家を心から尊敬する。心の中で「兄上の狩野探幽様なら、こうはいかない」と、絵においては弟よりも圧倒的に優れながらも、組織の上に立つ人間としてはてんでだめな天才を思い浮かべる。


 その尊敬する安信の口から意外な言葉が出る。


 「ただな一郎よ。お前は真面目が過ぎる。粋を知るには、吉原ぞ」



 一郎は麹町の狩野屋敷から、飯田町の狩野派の画塾に向かって歩いている。画塾は町民や商人にも開かれた「社会の窓」だ。むろん、そこでの師範料が一郎ら若い狩野派の弟子たちの生活費や画材代にもなっている。


 弟子たちにとっては、直接、絵の依頼があれば、それはまた「美味しい」仕事である。


 一郎は「吉原ねぇ、僕みたいな貧乏絵師が行けるところでもないし」と独り言を言う。


 画塾の入口で、教え子とばったり会う。と言っても相手はうんと年上の壮年の商人だ。一郎から頭を下げて挨拶する。


 「金沢屋さん。きょうもよろしくお願いします」


 廻船問屋金沢屋はでっぷりと肥えた腹をポンと叩いて人の良い笑顔で「朝湖先生!こちらこそよろしゅうお願いいたします」と頭をさらに深々と下げる。



 この日の画題は吉祥の宝船。金沢屋が描いたつたない絵に、一郎は「ここにこうちょっと」と細い線をいく筋か描き加える。金沢屋は「おー、さすが先生。絵が見違えましたわ」と腹をさすって喜ぶ。


 茶を飲みながら金沢屋は「習ってる先生が、朝湖なんて立派な画名を宗家から頂いて、弟子のワシも嬉しいですわ、ガハハ」と笑う。


 一郎は「金沢屋さんのご支援もあって、なんとか絵で食べていけてます」とお礼を言う。


 金沢屋は「ところで先生。お祝いに吉原にお連れさせてもらえませんか?」と誘う。


 一郎は「よ、吉原ですか…でも僕は行ったことがないです。江戸に来て絵の勉強だけしてきたので。女の人となにをどうすれば…」と顔を赤らめてうつむく。


 金沢屋は「ガハハ」と豪放に笑い、「残念ながら、初見の客は、女郎と『なに』をするどころか、会話すらできませんので、ご安心を」とニンマリと言う。


 一郎は「会話もできない?」と首をかしげると、金沢屋は「まぁ、そこは常連のわたくしめが連れていきますので、もちろん楽しいお話しはできます。それに、女郎の中には、俳句を読むと返してくる粋な女もいたりしまっせ。吉原は男と女の身体のせめぎ合いよりも、男と女の知恵の戦場いくさば」とわざと吉原言葉で話す。


 一郎は芭蕉の「胡蝶こちょうを名乗った女郎」の話を思い出す。


 一郎は姿勢を正して「ぜひとも、一度!粋を学ぶために僕をお連れいただけますか」と頭を下げると、金沢屋は「はいな!ただし吉原ではワシが先生でっせ」と宝船に乗る恵比寿のように大きな腹をポンと叩く。

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