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第5話 寛文十年(1670年) 多賀一郎 十九歳

◇寛文十年(1670年)江戸


 うららかな陽光が差す晩春の江戸の日本橋は、人々の熱気に包まれていた。小間物売りの女が、鈴を鳴らしながら客を呼び込み、荷を担いだ行商人が肩を揺らしながら往来を急ぐ。道行く人々は、それぞれが目的の場所へと足早に、あるいはゆっくりと向かう。


 多賀一郎が歩いていると、男が「多賀朝湖ちょうこくん!」といきなり肩を組んでくる。


 一郎は「なんすか?いきなり。芭蕉さん、昼間から酔ってます?」と鼻をつまむ。


 一郎よりも八つ年上の松尾芭蕉は明らかに酔った様子で「酔ってない!酔ってない!おいら、吉原帰りなんてことぁ無い!」と答える。


 「いい身分ですね。俳諧師ってのは」と一郎が言うと、芭蕉は強引に道端の蕎麦の屋台に一郎を引っ張り、椅子に座らせると、「おやじ!そばがきとお猪口一本ずつ」と注文する。


 一郎は「ちょっとちょっと。僕は飲みませんよ。まぁ、そばがきはいただきますけど。俳諧師と違って絵師は銭がないんです。材料費もずいぶんとかかるし」と口を尖らせる。


 芭蕉は「またまたぁ。売れっ子じゃん。聞いたよ、多賀朝湖って名乗りを、狩野宗家から認められたんだってね」と肘をつんつんとついてくる。


 一郎は「狩野安信やすのぶ先生からの認可の話、もう知ってるんですか」とまんざらでもない顔で聞く。


 「そりゃあ、そうよ。俳諧師は情報の鮮度が第一!」と芭蕉は言うと、「ほら、お祝いだ。一杯くらい、いいだろう」と強引に瀬戸のお猪口を握らせ、なみなみと徳利から酒を注ぐ。


 一郎はほんのちょっと舐めるように飲む。そんな恐る恐るとした様子を、にまーっと眺めた芭蕉は「それにしても、十一年前に入門したときに『狩野永徳先生はいらっしゃいますか?』って言ったんだっけ?」と言う。


 「そ、それは言わないでくださいよ」と一郎は真っ赤になる。狩野永徳はとっくに鬼籍に入っている。


 芭蕉は「まっ、『狩野探幽先生』って言わなくて良かったね」とバンバンと背中を叩く。一郎は思い出して肝を冷やす。狩野探幽の「弟」の狩野安信が宗家を継いでいると十一年前には思いもよらなかった。


 芭蕉は「で、朝湖って、誰がつけたの?宗家の大先生?」と聞くと、一郎は「自分です」と答える。芭蕉は「どういう意味?」と更に問うが、一郎は「秘密です」と短く答えて、お猪口を一気にあおる。


 十一年前、伊勢亀山に滞在した最後の日の朝、庄屋の家には友達となった童たちが集まって送り出してくれたが、そこに胡蝶こちょうの姿はなかった。


 旅立った親子三人だが、一郎は後ろ髪を引かれるように両親から少し離れてとぼとぼと歩いていた。鈴鹿川がぐいっと湾曲した加佐登の丘の下を通ると、村が見えなくなる。先をゆく両親の姿が丘の裾の影に入り見えなくなった。


 その時、一郎がふと丘の上に視線を送ると、いつもの襤褸ぼろとは違い赤い衣をまとった胡蝶が立っていた。


 彼女は、まるで舞台に立つ舞手のように、小柄な身体を風にさらしながら、身長よりもはるかに長い白い布のようなものを両手に持ち、それを大きく翻していた。


 その動きは、単に布を振るというよりも、指先まで神経の行き届いた、しなやかで激しい舞のように見えた。舞の所作に合わせて赤い衣の袖や裾も風に大きく翻り、その躍動感が遠目にも伝わってくる。頭上に天衣のように広がる白い布は、朝日に照らされて淡く輝く。


 絵師になる夢を引き出してくれた胡蝶への感謝と、直接別れの言葉を伝えられなかった寂しさが胸に込み上げ、一郎は衝動的に声をあげて手を伸ばそうとした。しかし、出立前に父が「あの娘は東照大権現様の仇の末裔」とだけ短く言ったことを思い出し、あげようとした手で、溢れそうになる涙をぬぐった。


 一郎はただ、動きがあるのにまるで時間が止まったような現実離れした光景を、目に焼き付けることしかできなかった。


 あれから十一年。どういうわけか、江戸につくと、父も母も狩野派への入門をあっさり認め、今「多賀朝湖」として一つ目の夢は叶った。


 「そういえばさぁ」と芭蕉が言う。「さっき吉原で一席上げてきたんだけど、面白い遊女がいたんだよね。おいらが『朝顔に つるべとられて もらい水』って詠んだら、すかさず『昼は錠おろす 門の垣』って返してきて、いやー粋だね」


 「そうっすか?」と一郎が芭蕉の徳利をひったくって自分のお猪口に注ぐ。


 芭蕉は「胡蝶って名乗ってたね。また指名しよっかな」と言うと、一郎は手の徳利からダラダラと芭蕉の着物に酒を垂らす。


 「ちょっ、ちょっ!朝湖くん、なにボーッとしてんの!濡れちゃってんじゃん!」と芭蕉が叫ぶ。




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