十三日目の朝、一郎は両親から母と安濃津へ日帰りで旅をするように伝えられる。翌日の旅立ちで胡蝶との別れに後ろ髪を引かれる思いもしたが、それよりも、数え八歳の一郎にとって母との旅が単純に嬉しかった。
◇
夕方、一郎は母の里の手を引きながら笑顔で、喜左衛門の屋敷に帰ると、畳で手酌をしている父の白庵に、「父上!藤堂高虎が築きし津城の高石垣、なんとも見事でした!」と興奮して話す。父は「そうか、そうか」と優しく息子の語りに耳を傾ける。
この日の思い出を語り尽くすと、一郎は正座して、「父上、母上、お願いがあります」と真剣な眼差しを両親に向ける。
白庵はお猪口を畳に置き、「なんだ?あらたまって」と聞く。
一郎は「江戸で狩野派に入門したいのです」とキッパリと告げる。
驚いた里が「狩野派って絵師の狩野派こと?」と息子に尋ねる。
一郎は「そうです。絵を習いたいのです!」と言う。
父の白庵も「待て、待て。医師でなく絵師と言ってるのか?」と信じがたいという表情を見せる。
一郎は「はい、絵師です。あと、もう一つあります」というと、白庵は「まだあるのか。なんだ?」とつぶやく。
一郎は「岡本の胡蝶を将来嫁にもらいたいのです!」と言う。
里は「えっ、それ誰?」と言う顔をして、夫を見ると、夫はガタガタと身体を震わせている。
白庵は「それは…『岡本の姫』のことか?」と声を上ずらせて息子に問う。
一郎は「はい、今でこそ水呑みに身を落としていますが、本来は大名の家の娘。決して、多賀家に見劣りする…」とまで言ったところで、白庵が急に立ち上がり、「駄目じゃ!駄目じゃ!あの娘だけは駄目じゃ!」と叫ぶ。
妻の里も、夫のこのような癇癪を見たことがなく、呆然とする。
一郎は「父上!」と言うが、「駄目じゃ」と返して取り付くしまもない。
◇
八歳の一郎は泣き疲れて深い眠りについていた。里はそっと布団をかけて、酒をあおり続ける夫の隣に静かに座る。
「里も、絵師になる、嫁を決めたと言われて驚きましたわ」と言い、「でも、嫁の話であんなにむきにならなくても」と続ける。
白庵は「あの娘は二つの理由で駄目なんじゃ」とブツブツと言う。
里は「まぁ、二つも」とわざと驚いて見せて「なんで、ですの?」と聞く。
白庵は「一つ目は、関ヶ原で東照大権現様に楯突いた岡本重政を曾祖父に持つことじゃ」と説明する。
里は「それは大変なこと!でも石田三成や真田幸村の娘が大名に嫁いでおりませんでしたっけ?」と言う。
白庵は「殿はそんな大大名では無い。家臣が西軍の将のひ孫を嫁になぞしたら。ただ、里の言う通り、もしかしたらあと十年も経てば…だが…」と拳を握る。
里も緊張して次の言葉を待つ。
白庵は「あの娘は、
里はばっと夫の顔を見て「陰陽ってまさか?その娘は女でも男でもあるっていうこと?」と聞く。
白庵は、「そういうことじゃ。昨日の悪い予感が、こんなことになるとは」と顔をしかめると、「うっうっ」と嗚咽を漏らした。