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第21話 吉原のルール

 次の夜、金沢屋丸木五郎が飛んでくる。


 妓楼の二階、正座をして、文机に向かう胡蝶こちょうの背中を見つめる。


 いつまで経っても話を始めない胡蝶にしびれを切らし、丸木は「一日先の夜の予約も入っていないのか?」と口火を切る。


 ようやく振り向いた胡蝶は、丸木の目をまっすぐ見て、「あら、知らないの。太夫たゆうは客を選べるのよ。今夜はみんな断りを、きのう入れたわ」と言う。


 丸木が「そんなの建て前…」と言いきる前に、胡蝶は「現に今あなたがいるってことは、それはやっぱり現実なのよ」と言う。


 丸木は圧倒されるのを押し返すように、ぶっきらぼうに「何を聞きたいんだ?」と問う。


 胡蝶は「多賀朝湖ちょうこの後ろには板倉重常しげつねがいるの?」と鋭い目つきでく。


 丸木はハッとする。今日突然呼び出され、何が起きて、何が繋がっているのかが薄っすらと見えてくる。


 「ち、違う!朝湖先生と板倉は一切関係ない!」と丸木は悲鳴のような大声を上げる。


 胡蝶は「あなたのを私はどうやって信じればいいの?女郎と商人はどっちが嘘つきかしら」と顎を上げて見下ろす。


 丸木は「ああ、確かに俺は極悪非道の商人だ。でも、朝湖先生は違うんだ。本当なんだ、信じてくれと言う資格は無いが、本当なんだ…」とうつむく。


 胡蝶は少し黙ってから「足崩していいよ。別にあんたを叱る母親役を演じる銭までもらっていないわ」と言うと、丸木は視線を下げたまま足を崩す。


 丸木は「朝湖先生は、なんだ。汚れた俺の唯一の…」とつぶやくと、胡蝶は「はは」と軽く笑い、「汚れた俺? もしかしてあんた、私を吉原に売ったあの日を『商人として呪われた日』なんて思ってるんじゃないの?」と言う。図星な丸木は顔を真っ赤にしてさらにうつむく。


 胡蝶は「あんたが悪かどうかなんてどうでもいい。知りたいのは、多賀朝湖と多賀一郎が同じ人間かどうかよ」と核心に迫る。


 丸木は「そんなことか?」と思いつつ、慎重に「あぁ、そうだ。朝湖先生の名前は多賀一郎だが、それが何だ?」と聞き返す。


 胡蝶は丸木を睨みながら両目からぶわっと涙が溢れそうになる。


 「やっぱり…この間の新月の夜、覗いていたのは一郎さ…いえ多賀朝湖だったのね」


 丸木は一郎が階段を転げ落ち、その着物が青臭い白濁したで汚れていたことを思い出し、すべてを理解する。


 「そ、そうだったのか…でも、朝湖先生が板倉と無関係なのは本当だ!頼む、どうかそれだけは信じてくれ!」


 胡蝶は立ち上がると、丸木をさらに見下ろす。溢れそうだった涙が決壊し、畳にポタポタと染みを作っていく。


 「多賀朝湖が私を指名したのは、あれを見たから…私のあれを覗き見たから…なんでしょ?」


 丸木は、一郎が胡蝶を指名したのは芭蕉から薦められたからくらいに考えていたが、あの夜に、一郎が板倉に倒錯的に責められる胡蝶を覗いたことはおそらく間違いないと確信する。「俺は、馬鹿なのか…」と心の中で自問する。


 一郎について嘘は付きたくない丸木は「朝湖先生はそんな人では無い…と思う」と答えるのが精一杯だ。


 胡蝶は「そう…分かったわ」と突然優しい声になる。丸木が驚いて顔を上げると、胡蝶の顔にはすでに涙はなく、吉原の女郎の定形の微笑みを浮かべている。


 胡蝶は「多賀一郎、つまり多賀朝湖はこの妓楼『茗荷みょうが屋』を出禁とします。満月の前の夜の予約は当然無しよ」と微笑みながら淡々と告げる。


 丸木は「そ、そんな!銭ならいくらでも払う。頼む!」と土下座する。


 胡蝶は「あーら、あなたは吉原の初心者なのね」とわざとらしく言い、言葉を続ける。


 「じゃあ特別に吉原の決まりを三つ教えてあげるわ。一つ、ここでは土下座は無価値。二つ、銭で買えないものがある、それは信用。三つ、太夫は客を選べる」

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