金沢屋丸木五郎が妓楼「
しばらくして、胡蝶が降りてくる。不機嫌な顔をしているが金沢屋が来るときはいつもそうなので女将は特に気に留めない。
女将は「なんだったんだい?急に」と聞くと、胡蝶は無表情のまま、「満月の前の夜の予約は無しになるそうよ。何でも板倉様がご用事で満月の日に来られないので、一日前倒しになるから、らしいわ」と言う。
女将は少し驚いて「
女将は「わ、分かったよ。あんたがちゃんと稼いでくれれば、文句はないよ。明後日はその板倉様の予約が入っているのを忘れないでよ」と言う。
胡蝶は「忘れる?忘れられたらどんなに良いか」と言いながら、階段を上がり、自分の部屋に戻っていく。
◇
二日後の夜。江戸城の南、赤坂の大名たちの屋敷が並ぶ一角の隅に、伊勢亀山藩五万石の上屋敷がある。周りの屋敷に比べるとこぢんまりとして、門の前に警護も一人しか置いていない。
金沢屋丸木五郎が、軽く会釈をすると、鍵を預けられている御用商人と知る警護はあくびをしながら、顎で門の横の小さな戸を示す。
今夜はいつもの
丸木は勘定役の部屋に入ると、持ってきた携行の灯りを灯し、白木の棚を漁ると、いく束かの資料を抱え、机の上に置く。
半刻後。丸木は前の藩主石川憲之から引き継がれた資料の一つ、「万治二年(1659年)侍医多賀白庵巡検記録」と題された報告書を読んでいる。
報告書の冊子を静かに閉じる。
「岡本の胡蝶と、多賀一郎の出会いはこの時なのか」とつぶやく。
多賀白庵の報告は緻密だが、配慮が行き届いている。胡蝶が岡本重政のひ孫であることや陰陽(両性具有)であることの「答え」を知っている丸木が読んでも、かろうじてその疑いを持ちえるかどうかだ。これを見ただけでそれにたどり着いた板倉
ぽたりぽたりと表紙に染みができる。「朝湖先生、胡蝶さん…俺は何ていうことを…」と丸木は嗚咽を漏らす。
◇いつもの蕎麦屋屋台
楽しそうに酒を交わす多賀一郎と松尾芭蕉を見つけると、丸木は少し離れたところから「朝湖先生~芭蕉先生~」と商人らしく快活に挨拶して手をふると、芭蕉の隣に静かに座る。
芭蕉は「よー、金沢屋さん、その後の会の進みはどうっすか?」と聞く。
丸木は太鼓腹をポンと叩いて「なんと、なんと、十人の太夫を揚げることになりました!ほぼ総揚げです」と言う。
一郎が敏感に「ほぼ?」と聞く。
丸木は一郎と目を合わさず、ぱっと頭を下げて「金沢屋一生の不覚。吉原十一人の太夫のうち一人だけどうしても日が合わず」と言う。
芭蕉が「まぁ、仕方ないよね。狩野派宗家と狩野探幽が同席するだけでも奇跡だもんね。で、ちなみに誰?その一人って」と聞く。
丸木は「茗荷屋の胡蝶です」とポツリと言う。
芭蕉は「えーっ? よりによってその一人がーっ」と頭を抱える。
一郎は「何とかならないのでしょうか? その胡蝶さんの出席は」と食い下がる。
芭蕉は「そうだよ、そうだよ。会の最初か最後に、ちょいと顔を見せて、オイラと一句やり取りするだけでいいからさ」と言うと、一郎もうんうんとうなずく。
丸木は言い訳できないと悟り、伏せた目をチラッと上げながら、「実は、多賀朝湖は茗荷屋を出禁になっておりまして」と言う。
芭蕉はばっと立ち上がり両手で頭を抱え、「なんだよ、なんだよ。朝湖くん、オトナじゃん。何をやらかしたんだよ」と叫ぶ。