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第23話 胡蝶の恨み

◇いつもの蕎麦屋屋台


 「僕が出禁…」と言葉を絞り出す多賀一郎だが、思い当たる節はある。ポロポロと大粒の涙が一郎のお猪口に落ち、波紋が広がる。


 芭蕉は慌てて「いやいや、そんな泣くようなことじゃないでしょ。揚げるっていっても、今回みたいに狩野派宗家が臨席するような大きな会じゃ、そもそも男と女の『なに』はできないよ」と慰める。


 一郎は「そんなんじゃ無いんです!」と大声を上げる。屋台はシーンとなる。


 一郎は「信じてもらえないと思いますけど、そんなことをしたいんじゃ無いんです」と語気を強める。


 芭蕉は「じゃ、じゃあ、何を?」と聞く。


 一郎は「僕の勘違いかもしれないけど、もし彼女が鈴鹿の胡蝶なら、十一年前に僕が絵師を目指すきっかけをもらったことへの『ありがとう』を一言伝えたいだけなんです」と声を震わせながら言う。


 芭蕉は「十一年前って、どういうことよ?」と困惑して、丸木の顔を見ると、丸木も涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしている。


 丸木は「金沢屋は朝湖先生を信じます。やっぱり信じていて良かったです」と感激で声を震わす。一郎と丸木は、芭蕉を挟んで「わーん」と泣き始める。


 日本橋を行き交う人たちの好奇の視線が集まる。


 芭蕉は「えっ?えっ?本当にどういうことー?!」と天を仰ぐ。


◇江戸 伊賀藤堂藩下屋敷


 翌週の昼、金沢屋丸木五郎は本郷にある伊賀藤堂藩下屋敷の門をくぐっていた。丸木は御用の伊勢亀山藩以外の大名屋敷を訪れたことはなく、緊張で身体がぶるぶると震える。


 門前では、届いた手紙に書かれていた「藤堂藩伊賀付士大将家が連衆・松尾宗房様」と丸暗記した言葉で取り次ぎを依頼した。


 門番は「松尾ソウボウ?」と眉をひそめて手紙をひったくると、「ふむ、芭蕉先生のことか」と言って通してくれた。


 通された部屋では芭蕉がすでに座って「よっ、待ってたよ。まぁ座って」と声をかける。


 丸木は「芭蕉さんって、正式なお名前は松尾宗房だったんですか?」と聞く。芭蕉は「宗房は四年前に亡くなった伊賀藤堂家のご嫡男からいただいた俳号だから正式な書状ではね。江戸逗留中はこうやって屋敷も使わせてもらってるし。まっ、そろそろ桃青にでも変えようかなって思ってるんだけどね」と言うと、「で、本題に移るけど、一郎くんと胡蝶ちゃんのこと、詳しく聞かせてくれないか」と膝を寄せる。


 丸木は「念のためですが、芭蕉さんは朝湖先生の味方ですよね」と聞く。芭蕉は真面目な顔になって、「あぁ、それは絶対に約束する」と誓う。


◇昼の吉原


 胡蝶は茶屋の座敷の襖が開かれると、奥に座る松尾芭蕉に「あら芭蕉先生、こんなに日を空けずにいらっしゃるなんて、胡蝶は嬉し…」まで言ったところで、太鼓持ちのさらに下座に小さくなって座っている金沢屋丸木五郎を見つける。


 胡蝶は芭蕉に冷たい視線を送り「帰って良いかしら」と言ってぱっと衣を払い背中を向ける。


 芭蕉は「待って待って。さすがに太夫たゆうといえど、座敷に入ってから客を断るのは無理でしょ」と言うと、胡蝶は付いてきた年かさの遣り手の女のほうを向いて目で確かめる。遣り手は首を横に振る。


 胡蝶はふーっと息を吐いてもう一度振り向くと、芭蕉と金沢屋からなるべく離れた座敷の入口に腰を下ろす。


 胡蝶は「何の用かしら?多賀朝湖の出禁のことだと思うけど」とやぶ睨みしながら言う。


 芭蕉が「あぁ、その通りなんだけど、ちょっと人払いしてもらっていいかな?」と聞くと、胡蝶は太鼓持ち、遣り手、禿らに目で指示して、座敷は胡蝶、芭蕉、丸木の三人になる。


 芭蕉が「オイラ、十一年前と一年前のことはあらかた聞いたんだけど」と言うと、胡蝶は「あらかた?」と言って丸木を睨む。


 慌てた芭蕉が「胡蝶ちゃんの身体のこともざっくり聞いたけど、オイラは夜にそれを確かめたりなんて無粋なことはしないから。昼専門だし」と言い訳をする。


 「この間、覗いちまったことも本人すごく反省してる」と芭蕉が言うと、胡蝶は「そんなことまで!」と丸木をさらに睨む。


 芭蕉は「あわわ、怒らないで。とにかく、多賀朝湖くんはただ胡蝶ちゃんに会って『ありがとう』を伝えたいだけってことなんだよお」と呂律が回らなくなる。


 胡蝶は呆れたように「お話しにならないわ。金沢屋、説明しなさい」と命じる。



 丸木は理路整然と説明した。いかに一郎が誠実な人柄であるかについても。


 芭蕉は「というわけなんだよ。朝湖くんの人柄はオイラも保証する。実際、狩野派宗家と狩野探幽の冷え切った兄弟仲を溶かしたのもあいつの真心だし」と追加する。


 丸木はガシッと手をついて額を畳に擦り付ける。


 「どうかどうか。朝湖先生はわたくしめだけでなく、みんなの光なのです。きっと胡蝶さんにも…」


 胡蝶はばっと立ち上がると、震えながら言葉を絞り出す。


 「また出たよ…『光』…」


 その瞳は怒りで鋭く揺らめいている。


 胡蝶は芭蕉に向かってザッと人差し指を指すと「芭蕉先生、あんた、歌詠みは人の心を詠むもんだとかいつも言ってるけど。何で私みたいな何でもない女の心一つ読めないんだよ。そうか、私は女じゃないからか、化け物の陰陽いんようだからか!」と声を上げる。


 黙り込む芭蕉の言葉を待たず、胡蝶は丸木へ指を差す。


 「怖いよ。怖いよ。あぁ私はあいつが、板倉重常しげつねが怖い。板倉が来ている夜に、ちょっと顔を出せ? あいつがそんな私の心の揺れに気づかないとでも思っているのかい。だとしたら金沢屋、あんたは悪人にもなれない、とんだ道化師だよ!」


 芭蕉は「胡蝶ちゃ、胡蝶さん。まぁ落ち着いて」と宥めるが、「知りたがりの芭蕉先生、一つ教えてあげるわ」と胡蝶は言い、「何で私がこんな地獄でのうのうと生きさらばえてると思う?」と聞く。芭蕉は無言でかぶりを振る。


 「私の周りは真っ黒な闇よ。鈴鹿の村人の命を守ってるから? 今あいつらがここにいたら私はすぐに妓楼に火をつけて全員燃やし殺してやるわ。板倉? 陰陽の私には月のものが来ない。ほかの女郎が月に一回腹を押さえてる代わりに私は二回押さえてる。それだけのことさ」


 丸木が土下座をしたまま、「すまない、すまない」と繰り返す。


 「板倉も金沢屋も村のやつらも、私にはただの黒。それが一人や二人、十人増えようがただの黒…」


 芭蕉は黙ったまま胡蝶の顔を見つめ次の言葉を待つ。


 「私が明けない夜の闇を惨めに彷徨さまよい続けてるのは、十一年前にあの男が、多賀一郎がくれた希望の『光』ってやつのせいなんだよ!」


 そう叫ぶと胡蝶はペタンとその場に座り込む。


 「多賀朝湖は茗荷みょうが屋出禁だよ。もしあいつが私に一言なにか言いたいなら、練り歩きのときに、冷やかしの客に混じって声をかければいいさ」


 胡蝶は顔を上げて、芭蕉を睨みつける。


 「その時は特別に返事をしてあげるよ。『ずっとおうらみ申し上げてます』ってね」


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