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第24話 平家物語大作戦

◇江戸 麹町 狩野派宗家屋敷


 麹町の狩野派宗家の二十畳の作業用の広間は、来月の会で展覧される宗家伝来の山水画の掛け軸が蔵から出されて掛けられている。


 季節は夏に向かい、ジメッとした室内で多賀一郎は汗をかきながら、会で披露する自分の新作絵を描いている。背中から宗家の狩野安信やすのぶが「熱心だな」と声をかける。


 「安信師匠!」と振り返り、「高級な紅の顔料も自由に使わせていただき、ありがとうございます」と頭を下げる。


 優しく目で応えた安信は、腕を組んで、壁にずらりと掛けられた狩野派歴代の山水画を見回してから、「しかし、一郎よ。お前は案外大胆じゃの」と感心したように言う。


 一郎は「やっぱり、駄目でしょうか」と上目遣いで尋ねると、安信は「ワハハ、良い良い。口をポカンとする兄上の顔を見るのが楽しみじゃ」と豪快に笑う。


 一郎は「べ、別に狩野探幽先生を驚かせるためではないんですけど」と頭をかく。



 「高尾に、西尾、薄雲…なんだよ、三浦屋は小紫と唐崎の二人とも出すらしいじゃないの。どうなってんだい、うちだけ!」と茗荷みょうが屋の女将が当たり散らしていると、昼の勤めを終えた胡蝶こちょうが暖簾をくぐる。


 女将は「ちょっと、太夫たゆう」と声をかけると、胡蝶はギロリと睨む。気押された女将は「あっ、あとでいいわ」と言うと、胡蝶は「」と女郎言葉で言って、高い下駄を片足ずつポンポンと土間に放ると、階段を上がり、自分の部屋に籠もる。


 文机の前に腰を下ろすと、厚手の和紙でできた蝶々形の髪飾り「平元結ひらもとゆい」をガッと掴み取って、壁に向かって投げつける。後ろに髪を流して留めていた下げ髪がふわっと広がる。


 禿かむろがおずおずと煙草盆たばこぼんを持ってきて、胡蝶の前に置くと、ささっと姿を消す。


 胡蝶は煙管きせるを手にして思い切り吸い込む。


 ケホッケホッとむせ返ると、両目から涙が溢れる。


 胡蝶が髪飾りを投げつけた壁には、継ぎはぎの跡が残る掛け軸が掛けられている。新月の夜に畳をひっくり返した板倉重常しげつねによって半分に破られた多賀朝湖の銘が入った絵だ。



 市中へ向かう猪牙ちょき舟で、松尾芭蕉と丸木五郎が黙り込んでいる。芭蕉は腕を組み、右手を顎に添えて、真剣な表情をしている。


 丸木は無言に耐えかねて「あんなに恨んでいるなんて思いもよりませんでした」と口を開く。


 芭蕉は「ん?金沢屋さん、何か言った?」と聞く。丸木が「ですから、胡蝶さんは朝湖先生を相当に恨んでいるって」と繰り返す。


 芭蕉は「あー、それね」といつもの軽い調子に戻って、丸木の肩をぽんと叩くと大川に向かって叫ぶ。


 「狩野派大博覧会あらため平家物語大作戦だ!」

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