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第25話 勃たないあいつ

 猪牙ちょき舟で「平家物語大作戦!」と松尾芭蕉が高らかに宣言する。


 丸木五郎は「男女の仲なら、源氏物語とか伊勢物語じゃないんですか?」と聞く。


 芭蕉はニヤリとして「そんな露骨なことをしたら、怖い殿様にばれるかもしれないでしょ!」と言う。


 「まさか壇ノ浦とか言って、伊勢亀山藩の屋敷に乗り込む気じゃ」と丸木は心配する。


 「そんなことしないって。オイラも何か板倉って人には近づきたくない、ブルっとするもん」


 丸木は「じゃあ、一体、平家物語の何を?」と更に聞くと、芭蕉は「うーん、そうだね。小督局こごうのつぼねだよ」と答える。


 吉原常連の丸木はさすがに詳しい。「小督局って、琴の名人で、高倉天皇の寵愛を受けて、代わりに平清盛の娘の徳子への寵が薄れて、怒った清盛が無理矢理に隠遁いんとんさせたっていう女性ですよね。ただ申し訳ないですが、胡蝶こちょうさんは琴を弾きませんよ」と言う。


 芭蕉は「あっ? そうなの? まぁ、大丈夫、大丈夫。何とかなるよ」と胸をドンと叩く。丸木は不安になる。



 胡蝶は板倉重常しげつねに宛てて、来訪を乞い願う手紙を書く。満月の前日であるのは、狩野派の大会の総揚そうあげを断り、殿と居たいからと書いた。


 胡蝶は板倉に嘘は通らないのではと考えていた。だが、城中でも話題の狩野派の大会よりも自分を選んだことに、自尊心が満たされたのか、特に詮索もなく、来訪が決まった。


 緊張しながら文を紐解いた胡蝶は少し拍子抜けしたものの、「嘘ではなかったからか。私は本心から多賀朝湖ちょうこに会いたくない」と考える。


◇ 満月の前夜 吉原


 満月の前夜の吉原は大いに盛り上がる。連続する練り歩きに冷やかし客はまるで歌舞伎でも見るかのように歓声を送る。


 総揚げーー。吉原の太夫十一人が練り歩きをして、みな中央通り「仲之町」沿いで一番大きい揚屋茶屋に吸い込まれていく。


 いや、一人例外がいた。茗荷みょうが屋の胡蝶だ。この日、板倉に揚げられているから練り歩きはするが、茗荷屋の女将が総揚げに一人参加しないことの公表を嫌がり、胡蝶も参加したていにしたのだ。もっとも、盛り上がる観衆に跡を付けられても面倒なので、まだ明るい早々に行われた。


 胡蝶は会の行われる揚屋茶屋が慌ただしく準備を進めているのを横目に練り歩く。まばらな冷やかし客の中に、松尾芭蕉そして多賀一郎が居ないかを、背中に汗が垂れるのを感じながら探ったが、その姿がないことにホッと息をつく。


◇夜の茗荷屋の二階


 板倉が胡蝶に覆いかぶさってくる。だが少し経つと、「えーい、うるさい!うるさい!祭りでもないのに、外のうるささ。何とかならんのか!」と大声をあげると、胡蝶の身体を突き飛ばす。


 この日の板倉は自身がどうしても固くなりきらず、今三度目の試みをして、どうやら諦めたようだ。


 胡蝶は「男にもこんなことがあるものか」と少し驚きながら、衣の乱れを直すと、手を叩いて、酒を持ってくるように、襖の外の禿かむろに合図を送る。


 板倉は胡蝶に注がせた酒を煽ると、聞いてもいないのに、「ワシは幕政、藩政で忙しい。お前のように遊郭で寝てるだけとは違うんじゃ。まして、周りがこんなに騒がしいと集中できん」と当たり散らしながら言い訳をする。


 「しかも狩野探幽が来てるだと? あれほど俗でろくでもない絵師はいない!」と、とばっちりを飛ばす。


 胡蝶はなんとなく話を合わせるために「殿は狩野派をお好きでなくて?」と聞く。


 板倉は「あやつらほど朱子学に反した絵はない。あの緊張感のない緩い絵、金箔で飾るだけ。虫唾むしずが走る」と罵る。


 胡蝶は「ただ、たしか探幽は名古屋城本丸上洛殿の襖絵に三代将軍家光様のために儒教の『帝鑑図ていかんず』を描かれたそうですが」と時間つぶしで話を引っ張る。


 板倉は「女郎のお前なぞ知らんだろうが、探幽めは、家光様に対して無礼にも、無駄遣いを戒める逸話と、家臣が無実の罪に貶められる場面を描きおった。『帝鑑図』では異例じゃ。将軍家を舐めておる!」と激昂する。



 胡蝶はあるじの怒りに驚くような素振りで一瞬顔を背けて、酒を用意し直す。影に隠れた胡蝶の口角がほんの少しだけ上がる。


 「私が九か月前にを定期報告で伝えたことを本当に忘れているわ」と考える。


 三十年以上も前の寛永十六年(1634年)、三代将軍徳川家光が上洛した。途中で叔父の尾張徳川家の名古屋城に寄る。そのため尾張藩は家光が宿泊するために新たに本丸に上洛殿(本丸御殿)を造り、その障壁画として帝鑑図を狩野探幽が描いた。だが、その後、帰り道を含め将軍が名古屋に泊まることは無く、尾張藩でも立ち入り禁止となっているため、障壁画の中身は外部に伝わることは無かった。


 胡蝶はそれを膝枕する尾張藩で城持ち級の重臣から聞いた。板倉に定期報告をすると、尾張藩は伊勢亀山とは海を挟んだ大藩であるが、板倉は一方的に敵愾心を持ってるようで、大いに前のめりになって目を光らせた。


 胡蝶は忖度して、尾張藩の悪口となるよう、ことさら「不用利口」「露台惜費」「明弁詐書」という画題が異例であり、なおかつそれは尾張藩の将軍家への当てこすりではないかという適当な見立てを加えて説明した。胡蝶はそこに探幽への批判などは一切盛らなかったが、この男の頭の中では、反朱子学、反将軍家としてうまく嵌ったのだろう。


 いま、胡蝶は「嘘を敏感に嗅ぎとる猟犬のような嗅覚は人間を超えている。でも、この男の頭脳は完璧ではない」とようやく気づく。


 板倉は「えーい、むしゃくしゃする。今夜はもう帰る」と腰をあげて、背を向ける。胡蝶はここでホッとした顔をしては駄目だと悟る。ここのところ、本物の涙を流したことで、目を潤ますやり方は身についた。


 突然、バカッと板倉は振り向いて胡蝶の表情を確かめる。少なくとも喜んでいるようには見えない。


 板倉は「お前、絵が好きなようだが、まさかこのあと、狩野派の会に行くつもりはあるまいな」と念押しする。


 胡蝶は首を横にふって、「絵を好きなのは私だけではありません。絵と本を見ることと、寝ることしかやることのないくるわの女はみな絵が好きになります。それだけのことにございます」と言う。


 板倉は「ふん、惨めなものよの」と言うと「もう一度聞く。狩野派の会に行きたいと思っておらぬか?」と目をジッと見て尋く。


 胡蝶は「行きたいと思っておりません」と即答する。


 板倉はニヤリとして「その目は嘘をついてはおらん。嘘はワシには分かる」と言うと、ドカドカと階段を降りていく。


 胡蝶は静かに付いていき、暖簾の手前で頭を深々と下げて見送る。階段を上がる途中で、身体から急に力が抜けて、途中の段に座り込む。


 「嘘はついていない。私は行きたいと思っていない。ただ夢見てるだけ」と自分の心を読み取る。


 一回、息を吐くと立ち上がり、女将に声をかけられる前に部屋へと戻る。




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