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第26話 胡蝶の夢

 大門おおもんが締まり、吉原も静寂の時間になる。これより少し前、狩野派の大宴会は盛況のうちに幕を閉じ、斯界しかいからの出席者たちも門が閉まる前にみな大門を出た。祭りのあとだけに、静かさはいつもよりも深い。


 突然、妓楼「茗荷みょうが屋」の前の路上で琴の演奏と能のうたいが始まる。


 「これは高倉の院に仕え奉る臣下なり。さても小督局こごうのつぼねと申して。君の御寵愛の御座そうろう。中宮はまた正しき相国の御息女なれば。世の憚りをおぼし召しけるか。小督局、暮に失せ給いて候。君の御なげき限りなし」


 胡蝶は、二階の自室で髪をほどき、下ろしたばかりの綿の下着だけをまとい、眠りの床につくところだった。


 外から聞こえる歌声にハッとした胡蝶は格子窓に寄って、暗闇の中で、地面に琴を置いて歌う松尾芭蕉を見つける。


 「芭蕉先生? そこで何を?」と二階から声をかける。


 芭蕉は嬉しそうに「胡蝶ちゃーん」と手を振ると、また謡と琴の演奏を再開する。


 「十五夜名月の夜なれば。琴弾き給わぬ事あらじ。小督局の御をよぉく聞き知りて候ほどに」


 突然の演奏に、大門の方から男衆たちが集まってきて、「てめぇ、何やってんだ。やめろ、やめろ」と芭蕉の身体を抑える。別の男は琴を蹴り上げる。


 芭蕉は「一夜の秋の月。琴の音に誘われん。想夫恋そうふれんのしらべこそ。君を恋ふる心なれ」と必死で謡を続ける。


 男衆が「いい加減にしろ!」と芭蕉を殴り始める。


 芭蕉は「胡蝶ちゃーん、この歌分かる?」と大声で聞く。胡蝶は「能のうたいの『想夫恋そうふれん』でしょ、それは分かるわ。だから何なの?」と叫ぶ。


 ボコボコと殴られる芭蕉は叫び返す。


 「あーもう! かれおもってるなら、行ってぇ!」


 さらに集まってきた男衆が「叩きのめせ!」と怒号をあげる。芭蕉は「いたっ、いたい!ちょっ、本当に痛い!ごめんなさい!ごめんなさい!痛い!もうしません、許して!」と悲鳴をあげる。


 格子にかぶりついていた胡蝶はそこから身体を剥がすと、白い綿の下着になにも羽織らず、解いた髪も下ろしたまま部屋の襖をばっと開ける。階段をばたばたと音をたてて駆け下り、裸足のまま飛ぶように土間に降りると、そのまま暖簾を手で払って、夜の仲之町へと走っていく。


 「太夫たゆうどこへ? てか湯浴み浴衣一枚、そんな格好で!」と女将が追いかけようとする。


 暖簾の暗がりからさっと男が出てきて立ちふさがる。女将は恵比寿のような太鼓腹にぶつかると、ぽよーんと弾かれて土間に尻もちをつく。


 男は口を開く。


 「ど~も~金沢屋で~す」


 女将は立ち上がると丸木の顔につばきを飛ばす。


 「てめぇ、金沢屋ぁ!総揚そうあげでうちだけ外して恥かかせたうえに、この横紙破り!今夜の揚げ代は、二倍、いや三倍請求するからね!」


 丸木は指でそろばんを弾くフリをして、「うーん、女将。申し訳ないけど、それは計算が合いませんな」と言う。女将は「金沢屋、てめぇ、値切る気かっ」と凄む。


 平然としたままの丸木は「三倍? いやいや…」と懐にガッと手を突っ込むと、パッと腕を伸ばして手のひらを開く。無数の黄金色が行灯あんどんの光できらめき、土間や畳に落ち「チャリンチャリン」と金属音を鳴らす。


 「三十倍払いましょう!」



 引け四つの鐘の音が鳴る。


 「はぁはぁ」。走り続けた胡蝶は揚屋茶屋の二階に駆け上り、大広間の襖を開ける。壁にたくさんの水墨山水画が掛かっている広い空間に、ポツンと一人だけ立っている男が振り返る。


 男は十一年分の微笑みで迎える。


 胡蝶は畳の上を走り、ぱっと飛びつく。二人は抱き合う。


 「胡蝶…やっと君を見つけたよ」


 「一郎さま…胡蝶はずっと一人で戦ってきた…あなたに会う夢だけを信じて!」


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