板倉
「
門番は冷や汗を流しながら「奥様はだいぶ早くにお休みになったようです」と答える。
しかし板倉は嘘を見抜いている。「こいつと妻は今まで寝ておったな」と。しかし板倉は何も言わない。
板倉は、大垣藩十万石の戸田氏信の娘、筆子を正妻としているが子はいない。少なくとも板倉の子は。なにしろ十一年間、夜の営みをしていないのだから。
板倉は元服した翌年の万治二年(1659年)=一郎と胡蝶が会った年でもある=に筆子を正妻として迎えた。もちろん、親がそして幕府が決めた結婚であり、事前に顔を見ることはない。
十七歳の若き次期当主であった板倉は、筆子が「源氏物語」好きであると聞き、興奮していた。
「紫の上、葵の上、明石の君、藤壺の中宮、
だが結婚の当日、現れた筆子はとうてい板倉が夢想していた姫とはほど遠い容姿だった。
「顔も身体も、まるで
ただ、初夜は嫌々済ました。筆子の顔を直視することなく、源氏物語の姫、玉鬘あたりを想像しながら腰をふり、溜まっていた分だけあっけなく精を放った。まもなく襖が開くと、戸田家から付いてきた中年の女が、確かに処女を失ったことを、布団に着いた血の跡で確認した。
翌日から板倉は、筆子と顔を合わせるものの、夜の営みは一切しなかった。まもなく、板倉は持っている源氏物語、そして写本を庭で燃やした。
ほどなくして、筆子は門番や下男など、身分の低い家中の男たちと関係を持ち始めた。板倉はそれを知っているが、何も言わない。ただ、この婚姻を進めた父の板倉
その板倉重郷は下総関宿藩五万石の藩主ながら、
父は口酸っぱく正妻とうまくやるよう息子を指導してきた。しかし、寺社奉行の公務の忙しさもあり、まさか初夜以外に寝ていないとまでは思っておらず、調べもしていなかった。
二年経った寛文元年(1661年)になって初めてそれを知り、驚愕する。
重郷は、中屋敷に住む重常を上屋敷の自室に呼び付ける。
「板倉宗家は祖父と父が京都所司代二代、当代のワシも奏者番であり寺社奉行と幕府の要である。もしもお前が自分の好みを理由に正妻との間に子を作らないなら、全くもって譜代大名の本分を忘れた儒教の心無き不忠もの。弟つまりそなたの叔父の
だが、父はあくまでお灸をすえるために言っただけだった。
たまたま最近、四代将軍徳川
すると、家綱は「それはなによりじゃな。九千石を弟の重形に分けてやってくれないか? むろん一万石にして別の大名家を建てるつもりはない。まだ若い重常を一族がちゃんと支えられるようにじゃ。いずれ、本家も四万五千から五万石にも加増し直す」と言う。重郷は「当家へのご配慮痛み入ります」と感謝をして、すでに弟への分与の手続きを進めていた。
このように叱責が理由の分与ではなかったのだが、かっとして重常のせいで九千石を減らすとも言ってしまう。
少しの間を置き、重郷は「さすがに言い過ぎた」と思い直し、「まぁ、たまには親子で酒を飲み交わそうや」と言うと、息子は「すぐに酒を持ってきます」と席を立って、しばらくすると徳利とお猪口を二つ盆に載せて戻ってくる。
重常は父に酒を注ぎ、「これからも一層徳川将軍のために全力を出し切ります」と言うので、父は「あぁ、なにごともお家大事、将軍様大事で行動してくれればワシはもう何も言わん」と息子と打ち解けたかと思い、笑顔で飲み干す。
重常は「ご安心を父上、もう何も申されなくても大丈夫です」と笑顔を返し、また酒を注ぐ。父は気分よく二杯目もグイッと飲み干し、「息子よ、お前もやらんか」と徳利を手にしようとすると、くらっと身体が揺れ、次の瞬間、意識が無くなってパタリと前のめりに倒れる。
「父上、酒に弱いのですな」と静かに微笑むと、快方もせずに部屋から出ていく。
翌朝、寺社奉行板倉重郷が突然の病で死亡した旨が届けられた。四十三歳の若さだった。
翌年、嫡男の板倉重常が板倉宗家第四代と下総関宿藩の新藩主となる。年齢が若いことと、新田分四千を含む九千石の分与はすでに将軍の決済が下りていたため、四万五千石での相続となった。だが、後に伊勢亀山藩に移封される時に五万石に加増される。
父の死のあと、板倉は時々、昔の記憶の一部が無くなるようになった。板倉本人もそれは気づいているが、完璧な自分を作るためにはむしろ好都合と考えている。
「消したい記憶だけ無くなるわけではないのが厄介じゃの。無くなったと思っていた父が死んだ夜の記憶も蘇るとはの…」とつぶやくと、寝室に行く前に勘定役の部屋に向かう。